月夜語り

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 彼女が、この壁を隔てた向こう側に、いる。  杏平は自室の壁をじっと見つめてはノックをする仕草を見せるが、それを慌てて逆の手が止める。はにかみながら弛んだ顔をくっと引き締めても、すぐにまた元通り。そんなことばかりを延々、一人で繰り返しているのだ。  降って沸いた幸運を思い切り誉めたい反面、落ち着かない。この状況をどう取り扱えば良いのか分からないからだ。器用な男ならこれを機に何かアクションを起こせるのだろう。しかし自分はそんな力量も度胸も持ち合わせてはいない――杏平は、ただ嬉しさを噛み締めながら孤独にそわそわするばかりだ。  いつもなら仕事の疲れでぐったりしながらぼそぼそ一人で月見酒、といってもただの缶ビール、しかも第三のビールなのだが、今宵は祝杯をあげたい気分だった。何かを成し遂げたわけではないのだが、そんなことは最早どうでも良いことだ。今はこれだけで満たされているのだから。
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