月夜語り

1/8
247人が本棚に入れています
本棚に追加
/398ページ

月夜語り

 さや果が店に戻ると、兼行がモップがけをしているところだった。続きはまた明日教えるから、今日は休んで良いということだったので、お言葉に甘えることにした。  実際、引っ越し、慣れない初仕事に、いやにテンションの高い住人の皆さんと疲れることの連続だった。生来の人見知りも相まって、かなり神経もすり減らした。鉛筆も同じくらい削ると、針のようになったことだろう。扉を開けて、荷物の片付いていない部屋を見ると、さや果はさらにぐったりした。 「はあー…そうだ、お風呂も使う前に洗わなきゃ…」  寝るためにもやることがたくさんある。重いまぶたに抗い、動きたくないと駄々をこねる身体にぱちんと平手で鞭をうつ。  洗剤などの掃除用具を入れた段ボールは玄関横の洗面所に置いてあったので、早速取り掛かる。今日は時間もないし、明日仕込みが始まるまでにしっかりやろうと、掃除は洗剤の泡を吹き付けて放置するだけにした。その間にベッドメイクをすませる。やっと入浴――といっても今日はシャワーだけだが――できるのは一時を過ぎてからだった。 「ちょっと圧倒されたけど…」  さや果はシャワーを頭からかぶりながら、すでに曇った鏡を見てつい呟いた。 「いい人たちで良かった」  お酒を飲んでも飲まなくても超ハイテンションの暁奈さん。  人懐こくて弟みたいな御影くん。  クールで素直な美乃梨さん。いや、美乃梨ちゃん、かな?どうやら学生さんみたいだったし。  そんな風にさっき出会った人たちのことを思い返して。結局今日はあまり話せなかったけど、これからまた仲良くなっていけたらいいな――なんてことを考えながら、さや果は風呂上がりの薄紅の手で冷蔵庫の扉を引いた。中身はジュースの入ったペットボトルだけ。移動中に買った余りだ。  遮るものが何もないため庫内灯がやけに目を刺してくる。電気を点けたらと言われた気がしたが、散らかった惨状が目に入るのが嫌で、あえてそうしない。  かろうじて足元が見える程度の仄暗い空間、一番奥にあるベッドの向こうからは、月明かりが、手招くように主張してきた。さや果はペットボトルを片手に歩み寄る。  そう言えば、この部屋には小さな庭がある。そのベッドルームにある大きな窓から出られるようになっているらしかった。  寝る前に少しだけ夜風に当たってみようか――飲み終えたペットボトルを手近な段ボールの上に置き、さや果はまだカーテンもつけていない窓を開けた。
/398ページ

最初のコメントを投稿しよう!