物語と僕

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そんな僕にでも見ている世界があって、それはきっと僕にしか見えない世界で、それを物語にする事で誰かに伝えたかったのだ。  ここに自分がいることを。色も、音もない、文字だけの景色で。  結局、あの時先生と約束した物語は完成することはなかったけれど、それでも自分の小説を待っていた人がいてくれたことは幸せだった。 例えそれが、もう戻ることができない記憶の中だけであったとしても。  崇は静かにため息をつくと、再び窓の向こうを見上げた。 無限に広がる空には、これからどんな形にもなれそうな雲が浮かんでいる。  あの日、何かになれると信じて走り出した自分。そして、何者にもなれなかった今の自分。  あまりにも青くて自由な空から逃げるように、崇は下を向くとテーブルに視線を戻した。 そこにあるのは、始まることのない物語をいつまでも待ち続けている原稿用紙。  崇はそっと右手の力を弱めると、静かに腕を引いた。  憧れを追い続けてきた小さなペン先が、いつか見た理想からゆっくりと遠ざかっていく。  その僅かな瞬間にだけ浮かんだあの時の先生の笑顔に、胸が焼けるように締め付けられる。  今まで、本当にありがとうございました。  あの夜言えなかった言葉を、崇はそっと呟いた。     
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