第3章

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 目が覚める。  庭先にある木の幹で蝉が鳴いているようだ。意外と近距離に居るらしく、広い部屋の中で反響する程、全身全霊で鳴き声を上げていた。  あまりにも凄い主張で目が覚めてしまったらしい。心地良い風が室内に入り込んで来て気持ちが良かったというのに。  眠りを遮げられたことで、自己主張の激しい蝉に対して少しだけ腹立たしく感じた。  蝉の寿命は短い。儚い一生だと言うのだから、きっと俺の怒りの方が理不尽なんだろう。そんなことを考えながら渋々と身を起こした。  とは言ったものの、蝉の寿命は七日では無い。捕獲した場合は飼育が難しく、七日前後で死んでしまうというだけで、寿命自体は約一ヶ月程度ある。幼虫時期を含めればむしろ長寿の部類だという。  けれど成虫となり、やっと外に出られるようになったと言うのに、彼らは四季を全て体験することが出来ない。人間に捕まってしまえば光の速さで人生を終える。長い時間を掛けて漸く外に出られたにも関わらず、だ。  だから彼らは鳴くのだ。 自分が生まれたことを、生きていたことを、誰かに覚えていて欲しいと鳴く。もし自分が蝉だったら、きっとそう願って声を上げるだろう。 「長生きしろよ」  先程までの苛立たしさがすっと消え、気まぐれに鳴き声のする方へ声を投げかけた。例え理解に及ばなくても、少しでも気持ちが届けば良いなと、そんな事を考えながら。  縁側から庭先に出て井戸へ向かう。太陽が東寄りにある、ということはまだ午前中のようだ。風は心地良いのに日差しが強く、夏の暑さを感じる。こんな日は井戸の冷たい水が気持ち良い。  そう言えば、彼女の姿が無いようだったが、まあ特別気にする事も無いだろう。今までも何度か彼女の姿が見えない時があったが、大抵は、「飾ろうと思って」と言いながら、どこで見つけたのかも分からない、色鮮やかな花束を抱えて戻って来た。  俺の目覚めが遅く、暇を持て余した彼女の暇潰しの一つだ。  初めの頃は居なくなったと不安になったりもしたが、彼女は当たり前のように必ずこの家に戻って来た。だから今回も、心配しなくてもすぐに戻ってくるだろう。  何を言うでも無く、何を言われるでも無く、いつの間にか彼女との信頼関係が出来上がっていた。可も無く不可も無く当たり前の様に隣にいる存在。相変わらず彼女の名前も、俺自身の名前も分からないけど。
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