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運転席のドアを閉めると、新車独特の匂いが鼻をかすめていく。それを嗅ぐと、卓は今日1日の疲れが洗い流される気がした。エンジンをかけてヘッドライトを灯すと、カーステレオからは昨日の夜にセッティングしておいた行政書士試験向け教材の音声が聞こえてくる。卓はそれを聞きながら昨日納車を終えたばかりのグリーンのコンパクトカーのアクセルを丁寧に踏み込んだ。目指すは妻・恵梨香の待つ自宅アパート。お腹に子を宿し1人で待つ妻のことを思うと気がはやる。
いくらコンパクトカーとはいえ、いくらカーナビもリアカメラも付けないとはいえ、新車を買うにはかなりの勇気が要った。介護職で年収220万円の卓にとって月々2万円近く、トータルで130万円の支払いはかなりの痛手である。しかし、
「子どもが生まれた後かなり長い期間使うことを考えると新車の方が絶対に得だよ」
という恵梨香の意見を受けて、卓は清水の舞台から飛び降りるような気持ちで5年のローンを組んだ。これからの60回に渡る返済への不安もあるが、それもこの新車の匂いを嗅ぐと少しだけ和らぐ気がする。
21時半の暗い夜道に信号機の赤い光が灯る。卓はブレーキを踏んで信号待ちをしているタクシーの後ろに停まった。
「債務不履行に関する416条1項の規定は、通常生ずべき損害についての損害賠償責任についてのべており、これは不法行為の損害賠償請求についても準用されると解されます」
スピーカーからハキハキとした男性の声が流れてくる。 卓は疲労感と闘いながら耳を傾けていた。
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