倥なるは愚かなり

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***********  崖下に広がる海は荒波を立て、岩を蹴散らし、渦を巻いている。それでも遠くに目を向ければ、至極穏やかな海面があり、いつものように水平線から太陽は昇ってくる。星空が段々と白んで行き、濃紺は一秒ごとにその明度を上げていく。  ――今日の太陽は、少し大きい気がする。  ぼんやりと考えながら、そうして朝を迎える――僕の毎朝の仕事だ。太陽の端が水平線と切り離されるのを見届けてから、一日を始めていく。  大きく欠伸をした。今の時期、海辺はよく冷える。軽く身震いをして、辺りを見回す。 「……あれ」  一つの人影。それも、こんな朝早くに。珍しいこともあるものだ。この辺りは「日の出が美しい」観光名所として有名だったが、それももはや昔の話である。  それでも来る人はいるのだな、と何の気なしに見ていると、やがて奇妙なことに気づいた。  足が、地についていないのだ。  幽霊か、と一瞬疑ったが、元々科学を生業としている身である。霊的なものとは相反するような立場にいる人種だ。幽霊などという、非科学的なものは真っ向から否定しよう。  第一、確かに彼女は宙に浮いているとは言え、足は存在している。――だとすれば、彼女は何者なのか。  彼女はまだこちらに気づいていないようである。こんなところに家が立っているということにも同じであるように感じる。  ならば、と僕はそのまま、彼女の正体を確かめるべく観察を続けることにした。  もしかすれば、奇怪ではあるが久し振りに見た人間ゆえ知り合いになりたいという欲もあったかもしれない。  その時である。 「……ぁ」  ほんの一瞬、彼女が涙を流したように見えた。いや、太陽に目が眩んだだけかもしれない。少し手で顔を擦ったかと思うと――その体躯は、崖の向こう側へと傾いていた。  何が起きたのかは分からなかった。  刹那の思考と、その行為への戒め。それらを経てようやく一歩目を踏み出すことができた。今更駆け寄ったところでどうにかなるとは思えなかったが、そうせずにはいられなかったのだ。だが、彼女が立っていた地点に到達する頃には、その姿は見えなくなっていた。  手遅れだった、と意味もなく辺りを見回す。今のような世の中では、未来に悲観して自殺する者もさして珍しいものでもない。既に世界が半壊して数年余りが経つが、未だにそういった人を見るたび、夜な夜な罪悪感に襲われる。
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