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何にせよ、朝からこのような不快な気分にされたのは初めてだ――身勝手なことこの上ないことではあるが、僕は溜め息を一つついて家に戻ろうと踵を返す。その時、どこからともなく声が聞こえた。
「ああ、人が住んでいらしたのですか」
咄嗟に周りを見回すが、やはり人影は見えない。
「下ですよ、下」
「……下?」
声に促されるまま、崖から海を覗き込む。
「申し訳ない――自殺したわけでは、ないのです」
彼女は、空中で身を放り出すように――背を海面に向けて、脚を空に向けて、僕を見上げていた。そうして、何事もないように少し微笑むのだ。
「な、なんだ……、一体……」
「少し、立ちくらみで……お恥ずかしい」
呆気に取られている僕とは対照的に、極めて淡々と喋る彼女は、恥ずかしそうに笑った。
「そっち、行きますね」
そう言って、彼女は崖の側面に足をつけた――少なくとも、僕にはそう感じた。しかし、その足は地球とくっついていない。同じ極の磁石同士のように、浮いている。
「そこ、失礼します」
歩く、と形容できるだろうか。あえて表現するならば、崖を「歩き登る」というべきなのだろうか。岩から岩へと飛び移りながら、至極流麗に、彼女は崖の上まで戻ってきた。そうして、やはり地に足をつけないまま――空中で、可憐に微笑むのだ。
「改めて、申し訳ないです」
ふわり、と髪がなびいた。
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