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手術を終えて、次の抗がん剤治療に入るまでのあいだ、いったん家に帰れることになった。車椅子に乗って入った家は、ずいぶん天井が高く見えた。お父さんに押してもらってすぐにリビングに連れて行ってもらった。引き戸をくぐると懐かしいケージの木の柵が見えた。だけど、なかには誰もいない。
血の気が引いた。背筋の芯が冷たくなった。
「おとうさん。ネロは」震える唇で叫んで、思わず身を乗り出すと、そのまま床に倒れ込んでしまった。
「大丈夫か」慌ててお父さんが駆け寄る。
「ネロはどこいったの……」
答えを聞くのが怖い。けど聞かずにはいられない。抗がん剤を点滴したときみたいに、氷の棒を口から突っ込まれて胃のなかをかきまわされたような吐き気がこみ上げてくる。
お父さんは必死の顔付きになっているぼくを見て、思わずといった様子で笑い出した。倒れているぼくのそばに腰を降ろして、「あわてんぼうだな、カズキは」と何度も頭をなでる。
玄関の開く音がして、荒い息が聞こえた。散歩に行ったときのネロの呼吸だ。足音が聞こえて部屋の入り口を見ると、ちょうど立ち止まってこちらを見ているネロと目が合った。舌を出して肩で呼吸をしている。うしろでは振られているしっぽがネロのからだごしにちらちら見える。お母さんがあとから近付いてきたけど、ネロが入り口をふさいでいるので入れない。
「ネロ」
ぼくが呼びかけると、しっぽの振りが大きくなる。
「カム・ヒア」
ネロは全速力で駆け寄って、そのままの勢いで、床に寝ているぼくの上に乗っかってきた。
「息ができないよ、ネロ」こみ上げる笑いをおさえられずに、ぼくは両手でネロを抱き締める。流れる涙は全部ネロに舐められた。包帯のめくれた脚に、ネロのお腹の柔らかいぬくもりが染みこんできた。
<了>
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