ヨガ教室(更衣室)

1/1
前へ
/76ページ
次へ

ヨガ教室(更衣室)

 ヨガ教室『プラスターナ』の入っているビルは、地下鉄日本橋駅を出てすぐの場所にあった。弦の目を引いたのは、その近くに立っている丸善ビルだ。まだシャッターは閉まっている。  ――ヨガが終わったら寄ろうかな。  弦は本屋が好きだった。目についた本をいたずらに開いて物色するのが楽しい。それに、少し高級感のある文房具を衝動買いするのも、良いストレスの発散になっていた。  目当てのビルに入り、エレベーターで一階から三階まで上がると、二メートルほどの廊下の先にエントランスの自動ドアが見えた。  何も考えずにドアの前に立ったが、受付カウンターがある待合スペースに足を踏み入れたとたん、弦のなかで苦手意識が芽生えた。  フロア内は、いかにも女性向けな、あからさまな癒し空間だったからだ。場違い感が半端じゃない。  受付に立つヨガウェアの女性が、弦に向かって挨拶してくれる。弦は挨拶を返しながら、室内を見渡した。 カウンターも、棚も、隣の部屋へと続くドアも温もりのある木製。照明は抑え気味だ。天井に埋め込み型の電球がいくつか。  窓際に配置された二人掛けの木製テーブルに目をやると、そこに座って何か書いているスーツ姿の日比谷の姿があった。 「日比谷さん」  声をかけると、彼はすぐ顔を上げ、弦に向かって手を挙げた。そのあと受付を顎で指した。  弦は受付に行き、名前を告げた。 「藤崎様ですね、ご予約承っております。初めての方にはアンケートをお願いしていまして」  女性からA4サイズの紙とボールペンを受け取って、弦は日比谷の座っているテーブルに向かった。彼の向かい側に座り、アンケートに記入していく。 「早く来すぎたな」  日比谷に声を掛けられ、弦は相槌を打った。周りには他の受講者がいない。  アンケートの内容は、ヨガ歴とヨガを行う目的、現在の健康状態と、既往歴だ。紙面の終わりの方には、住所、氏名、電話番号、ヨガ教室から勤務先までの所要時間を記入する欄がある。 「日比谷さんってどこに勤めてるんですか」  どうせ一流企業だろうと思いつつ聞いてみる。 「丸蒼」 「丸蒼って……凄いですね」  誰もがその名を知っている大手の老舗商社だ。 「皆、同じ反応するよ」  つまらなそうに日比谷が言った。 「藤崎はどこに勤めてるんだ?」 「あ――俺は、マニウス、です」 「お前だって凄いじゃん。IT企業では一番知名度がある」  褒め返されてもあまり嬉しくなかった。日比谷の声が冷めているからだろう。  弦は日比谷の顔をちらっと見た。一昨日会った時と髪型が違った。前は全体的に髪が伸び気味で、ワックスで流しているようだったが、今はサイド、バックは刈り上げている。前髪は上に持ち上げていて形の良い額、眉がしっかり見える形になっている。怜悧な美貌がより際立っている。 「日比谷さんも髪、切ったんですね」 「ああ」  素っ気なく返され、弦は鼻白んだ。  ――俺も髪、切ったんだけど。  前回会ったときに日比谷に髪が伸びていると指摘され、すぐ美容院に行ったのだ。  日比谷はどうも機嫌が良くないようだ。弦から話を振っても全然乗ってこない。  二人はアンケート用紙を書き終えると、受付の女性にそれを渡して、男性専用の更衣室に入った。中は狭い。縦に細く、ロッカーが五つ並んでいる。  スーツの上とワイシャツを脱ぎ、備え付けのハンガーに掛けていると、横から視線を感じた。日比谷の方を見ると、彼が呆れたような目つきで弦の腹部を見ていた。 「おまえ……まだ二十九なのになんだよ、その腹は」  そういって、とつぜん弦の脇腹のぜい肉を摘まんできた。 「ちょっ……やめてください」  遠慮のない手を叩き落とそうとしたが、彼の動きの方が早かった。今度は二の腕の肉を引っ張られる。 「緩い生活してるんだろ。運動もしないで、食べたいものだけ食べて」  馬鹿にした口調で日比谷がなおも言うので、弦は腹が立ってきた。 「そういうあんたは――」  語調を荒げて、弦は隣の男の裸を見た。 とたん、言い返す言葉を失ってしまう。  ――すっげ……完璧だ。  日比谷の上半身にはぜい肉がついていなかった。腕にも腹にも筋肉がきちんとついていて、弛みを見つけることができない。 「――日比谷さんは凄いですね。毎日筋トレでもしてるんですか」 「週二でジムに通ってるし、毎朝ジョギングしてる」 「あ――それは……」  弦の中から怒りは消失した。他人に駄目出しできるほど、日比谷は体型を維持しているし、努力もしている。 「たしかに俺は努力してないです」 「努力しろよ。彼女欲しいなら」  痛い所を突かれ、弦は閉口した。  ――俺、デブってわけじゃないんだけど。   心の中だけで反論してみる。自分はいたって標準体型なのだ。この前受けた健康診断だって『正常』だった。 「俺、身長百七十六で体重は六十五あるかないか、ですけど」  ようやく反論してみても、日比谷は哀れみの表情で、弦の腹部を見てくるのみ。  ――なんか、ほんと、ムカつくっていうか。  対抗意識がメラメラと燃えてきた。  ――くっそ、俺だって頑張ればこれぐらい、すぐに。  今一度、日比谷の均整の取れた上半身を睨むように見た。 「日比谷さんはプロテインとか飲んでるんですか?」 「飲んでねえよ。そこまで頑張ってない。日々の食事に気を遣って、ちゃんと運動しているだけだ」  ――マジか……。  頑張る前から負けた気がした。 「ほんと、マズいぞ、これは」  今度はちょっと意地の悪い顔をして、日比谷がみぞおちの肉を摘まんできた。何回も。 「やめてくださいよ……」  弦の声は力ないものになった。
/76ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1245人が本棚に入れています
本棚に追加