1245人が本棚に入れています
本棚に追加
ヨガ教室(更衣室)
ヨガ教室『プラスターナ』の入っているビルは、地下鉄日本橋駅を出てすぐの場所にあった。弦の目を引いたのは、その近くに立っている丸善ビルだ。まだシャッターは閉まっている。
――ヨガが終わったら寄ろうかな。
弦は本屋が好きだった。目についた本をいたずらに開いて物色するのが楽しい。それに、少し高級感のある文房具を衝動買いするのも、良いストレスの発散になっていた。
目当てのビルに入り、エレベーターで一階から三階まで上がると、二メートルほどの廊下の先にエントランスの自動ドアが見えた。
何も考えずにドアの前に立ったが、受付カウンターがある待合スペースに足を踏み入れたとたん、弦のなかで苦手意識が芽生えた。
フロア内は、いかにも女性向けな、あからさまな癒し空間だったからだ。場違い感が半端じゃない。
受付に立つヨガウェアの女性が、弦に向かって挨拶してくれる。弦は挨拶を返しながら、室内を見渡した。
カウンターも、棚も、隣の部屋へと続くドアも温もりのある木製。照明は抑え気味だ。天井に埋め込み型の電球がいくつか。
窓際に配置された二人掛けの木製テーブルに目をやると、そこに座って何か書いているスーツ姿の日比谷の姿があった。
「日比谷さん」
声をかけると、彼はすぐ顔を上げ、弦に向かって手を挙げた。そのあと受付を顎で指した。
弦は受付に行き、名前を告げた。
「藤崎様ですね、ご予約承っております。初めての方にはアンケートをお願いしていまして」
女性からA4サイズの紙とボールペンを受け取って、弦は日比谷の座っているテーブルに向かった。彼の向かい側に座り、アンケートに記入していく。
「早く来すぎたな」
日比谷に声を掛けられ、弦は相槌を打った。周りには他の受講者がいない。
アンケートの内容は、ヨガ歴とヨガを行う目的、現在の健康状態と、既往歴だ。紙面の終わりの方には、住所、氏名、電話番号、ヨガ教室から勤務先までの所要時間を記入する欄がある。
「日比谷さんってどこに勤めてるんですか」
どうせ一流企業だろうと思いつつ聞いてみる。
「丸蒼」
「丸蒼って……凄いですね」
誰もがその名を知っている大手の老舗商社だ。
「皆、同じ反応するよ」
つまらなそうに日比谷が言った。
「藤崎はどこに勤めてるんだ?」
「あ――俺は、マニウス、です」
「お前だって凄いじゃん。IT企業では一番知名度がある」
褒め返されてもあまり嬉しくなかった。日比谷の声が冷めているからだろう。
弦は日比谷の顔をちらっと見た。一昨日会った時と髪型が違った。前は全体的に髪が伸び気味で、ワックスで流しているようだったが、今はサイド、バックは刈り上げている。前髪は上に持ち上げていて形の良い額、眉がしっかり見える形になっている。怜悧な美貌がより際立っている。
「日比谷さんも髪、切ったんですね」
「ああ」
素っ気なく返され、弦は鼻白んだ。
――俺も髪、切ったんだけど。
前回会ったときに日比谷に髪が伸びていると指摘され、すぐ美容院に行ったのだ。
日比谷はどうも機嫌が良くないようだ。弦から話を振っても全然乗ってこない。
二人はアンケート用紙を書き終えると、受付の女性にそれを渡して、男性専用の更衣室に入った。中は狭い。縦に細く、ロッカーが五つ並んでいる。
スーツの上とワイシャツを脱ぎ、備え付けのハンガーに掛けていると、横から視線を感じた。日比谷の方を見ると、彼が呆れたような目つきで弦の腹部を見ていた。
「おまえ……まだ二十九なのになんだよ、その腹は」
そういって、とつぜん弦の脇腹のぜい肉を摘まんできた。
「ちょっ……やめてください」
遠慮のない手を叩き落とそうとしたが、彼の動きの方が早かった。今度は二の腕の肉を引っ張られる。
「緩い生活してるんだろ。運動もしないで、食べたいものだけ食べて」
馬鹿にした口調で日比谷がなおも言うので、弦は腹が立ってきた。
「そういうあんたは――」
語調を荒げて、弦は隣の男の裸を見た。 とたん、言い返す言葉を失ってしまう。
――すっげ……完璧だ。
日比谷の上半身にはぜい肉がついていなかった。腕にも腹にも筋肉がきちんとついていて、弛みを見つけることができない。
「――日比谷さんは凄いですね。毎日筋トレでもしてるんですか」
「週二でジムに通ってるし、毎朝ジョギングしてる」
「あ――それは……」
弦の中から怒りは消失した。他人に駄目出しできるほど、日比谷は体型を維持しているし、努力もしている。
「たしかに俺は努力してないです」
「努力しろよ。彼女欲しいなら」
痛い所を突かれ、弦は閉口した。
――俺、デブってわけじゃないんだけど。
心の中だけで反論してみる。自分はいたって標準体型なのだ。この前受けた健康診断だって『正常』だった。
「俺、身長百七十六で体重は六十五あるかないか、ですけど」
ようやく反論してみても、日比谷は哀れみの表情で、弦の腹部を見てくるのみ。
――なんか、ほんと、ムカつくっていうか。
対抗意識がメラメラと燃えてきた。
――くっそ、俺だって頑張ればこれぐらい、すぐに。
今一度、日比谷の均整の取れた上半身を睨むように見た。
「日比谷さんはプロテインとか飲んでるんですか?」
「飲んでねえよ。そこまで頑張ってない。日々の食事に気を遣って、ちゃんと運動しているだけだ」
――マジか……。
頑張る前から負けた気がした。
「ほんと、マズいぞ、これは」
今度はちょっと意地の悪い顔をして、日比谷がみぞおちの肉を摘まんできた。何回も。
「やめてくださいよ……」
弦の声は力ないものになった。
最初のコメントを投稿しよう!