日比谷の好みのタイプ

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日比谷の好みのタイプ

 二人がヨガルームに入ると、すでに受講者が二名、フローリングの床にヨガマットを敷いてお喋りをしていた。なんとなく、彼女たちは今日が初めてではないと察した。  弦たちも空いたスペースにレンタルしたヨガマットを敷いて、レッスンが始まるのを待った。時間が経つにつれ、続々と女性の受講者が室内に入ってくる。  七時二十分ちょうどになると、受講者の数は十名になり、インストラクターの女性が最後にヨガルームに入ってきた。鏡張りの壁をバックにして、自己紹介をちょっとしてから、レッスンを開始させた。 まずはウォーミングアップの瞑想だ。胡坐をかいて、両手を合わせ、目を閉じ、深呼吸を繰り返す。 「自分の呼吸だけに意識を集中してください」  そうは言われても、弦は雑念を払うことができない。  ――日比谷さん、なんであんなに良い体してんだよ。  自分より三つも年上なのに、彼の体は締まっていて張りがあった。  ――そこまで頑張ってないって言ってたけど、あれは相当頑張ってる。  腹筋が割れていた。大胸筋も盛り上がっていた。三角筋、上腕二頭筋も発達していた。  ――って、なんで俺、筋肉に詳しいんだよ。ないくせに。 「では目を開けてください。これから先は私の見本を見ながらポーズを取ってください」  ゆったりとしたペースで、インストラクターがポーズを変えていく。序盤は楽な体勢が続いたが、徐々にアクロバティックな動きが増えていく。腕立て伏せのような状態で片足を上げるなど、腕や腹、尻や両脚がプルプル震えるほど無理なポーズを頑張って真似る。  隣をちらりと見ると、涼しい顔をして日比谷が綺麗にポーズをとっているので、ちょっと悔しくなる。 「――ではクールダウンをしましょう。皆さん、仰向けになって寝て目を瞑りましょう」  ようやくレッスンが終わるようだ。弦はホッとした。  ――まいったな。  普通に疲れてしまった。このあと会社に行くというのに。  周りを見ると、息を切らしている人なんて一人もいないし、皆、余裕の表情を浮かべている。  ――俺が疲れやすいだけか?  日頃の運動不足が祟ったか。  仰向けになり、両手を重ねて臍の上に置き、目を閉じる。それでも真っ暗にはならない。室内の窓から、ふんだんに陽光が差しているからだ。 「このヨガサロンの名前――『プラスターナ』は、サンスクリット語で『旅』や『旅立ち』という意味を持つんです。ですから今、自分が新しい世界に旅立つイメージを浮かべても良いですし、宇宙を思い描いても良いです。お好きなように瞑想してください」  そういわれても、と弦は苦笑する。どちらも想像できない。こんなに疲れていたら(それも眠気を誘引するような癒し系の声で話されたら)、ふつうに睡魔が襲ってくる。 「おい、おまえ寝てるのか?」  顔に男の声が振ってくる。  ――うるさいな。  めちゃくちゃ気だるい。背中が床に溶けてしまいそうなほど、体が弛緩している。そして眠い。 「起きろって! もうヨガ終わったぞ」  怒ったような声と共に、片方の肩を揺すられる感覚で、弦はとつじょ覚醒した。目を開ける。 「あれっ?」  自分でも笑っちゃうぐらい、へんてこな声が出た。呆れ顔の日比谷と、周囲を見る。女性はとっくにマットを片付け、ヨガルームを出ていこうとしている。出口が詰まっていた。  弦は上体を起こし、ため息を吐いた。女性の出会いはあまり見込めないようだ。ここは。  待合フロアにまで日比谷と共に歩いていくと、ヨガマットを持った女性が一人、「あの」、と声をかけてきた。出待ちをしていたみたいなタイミングだ。 「日比谷さんもヨガが好きなんですか?」  恥らうような上目遣いで、女性が問うてくる。どうやら彼女は日比谷の知り合いのようだ。なかなかの美人だ。胸も大きい。 「――君は……」  日比谷が逡巡するように視線を泳がせた。 「あ、私、総務の目黒です。私のこと知らなくて当然です。仕事で関わってないですし」  慌てたように手を振って、言葉を繋げる。 「すみません、気安く話しかけて」  言い終わったとたん、彼女は逃げるようにして女性用更衣室に駆けて行く。日比谷は引き留めることをしなかった。 「同じ会社の人ですか」  弦が聞いても、「そうみたいだな」と日比谷は苦笑するのみ。本当に目黒のことを知らないようだ。彼女の方が一方的に日比谷を知っていて、憧れているだけなのかもしれない。 「新しい出会い、かもしれませんよ」  茶化すように言ってみたが、「それはない」と冷めた声で返された。 「好みじゃない、全然。外見も内面も」  ――一刀両断だな。  あまりの言われように、目黒という女性に同情した。 「どこが嫌なんですか」 「自分から馴れ馴れしく声をかけてくるところとか」 「勇気を振り絞って声をかけてきたように見えましたけど」 「押しつけがましくて嫌なんだよ」  ウンザリしたように日比谷が言って、男用更衣室へと歩いていく。  ――なんか気難しい人だな、日比谷さんって。  これでよく結婚しようと思ったものだ。他人に対して許容範囲が狭そうなのに。そういえば、日比谷の部屋は超がつくほど綺麗だった。そんな彼と一緒に暮らせる人、となると同じぐらい整理整頓、掃除が出来る人でないと同居は無理だろう。  ロッカーの前で着替えながら、弦は日比谷に質問した。 「結婚しようとしていた相手、どんな感じの人だったんですか」 「――その質問、カウンセリングの一環か?」  筋肉質な体を晒しながら、日比谷が聞き返してくる。 「まあ、そうです」  ただの好奇心だったが、正直に言ったら怒られそうだ。 「大人しくて従順だったよ。顔も体も好みだった」 「好みって、どういう……」 「手足がすらっとしていて、無駄な贅肉が付いてなくて、顔も人形みたいに整ってた」 「そうですか」  ――外見の好みも厳しいな。  日比谷に新しい恋愛は、なかなか訪れないかもしれない。 「まだ時間が余るな。コーヒーでも飲みに行くか」  日比谷が言った。お誘い、というより、断定的な口調で。 「あー俺、ちょっと寄りたいところがあるんで」 「どこだ」 「そこの丸善に」 「まだ開いてないぞ。九時半オープンだ」  弦はスマホで時間を確認する。と、まだ八時十五分だ。 「近くにスタバがある。奢るから、夢分析してくれ」 「気になる夢でもあるんですか」 「あるから頼んでるんだろうが」  日比谷が呆れた視線を向けてくる。  ――頼んでるような口調じゃない。  前回会ったときより、弱弱しさや殊勝な感じがなくなっている。大学の頃の不遜な物言いが復活している。  ――まあ、立ち直りの兆しなら良いんだけど。  弦は暫し逡巡した後、彼の頼みを承諾した。 「じゃあ三十分だけ」  日比谷の見た夢がどんなものが気になるし、時間を潰せる。 「え? 九時から仕事なのに大丈夫なのか」  意地の悪い声で日比谷が言った。 「――あ」 「本当は何時からなんだ? 仕事」 「九時半からです」 「くだらない嘘つきやがって」  ふっと笑って、日比谷が弦の頭を小突いてきた。
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