警告夢2

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警告夢2

 ふたりは銀座方面に二分ほど歩いた後、ビルの一階にあるスタバに入った。レジには客が二人並んでいたが、どちらもテイクアウトですぐに店を出て行った。 「お前は何が飲みたい? 俺がレジで頼むから、先に行って席を取ってろ」 「じゃあアイスコーヒーお願いします」  今は冷たいものが飲みたかった。ヨガで体が温まっている。  一人で二階に上がり、ソファ席が空いていたので急いでそこに座った。黒い皮張りのソファ二脚だ。日比谷も文句を言わないだろう。  彼はアイスコーヒーも奢ってくれるだろう。カウンセリングの代価として。  ――つまり、カウンセラーとクライエントという関係性を保ちたいってわけだ。  大いに結構だ。日比谷とそれ以外の関係になりたいとも思わない。  弦はビジネスバッグからソフトカバーの本を取り出した。学生時代に愛読していた二センチの厚みがある夢占い事典だ。内容はほとんど暗記していたが、念のため持ってきたのだ。それを適当に捲って読んでいると、すぐに日比谷が席にやってきた。 「ほら、ノート」  アイスコーヒーと共に、夢日記用のノートもテーブルに置かれる。 「あ、ありがとうございます」  コーヒーの礼を言ってから、弦はノートを開いた。 『二月十八日 朝方』  今日の日付だ。ページの半分が、夢の詳細で埋められている。 『家の壁を、自分ひとりで赤から青に塗り替えている。あまり楽しい気分ではないが、塗り替えないといけないと、休むことなく塗っていた。全部塗り終わって青一色になり、自分は安心している。嬉しくはない。 青いペンキが少し残った。残しておいてもしょうがないから、捨てようとしたら、目の前に急に藤崎が立っていた。使い道が見つかったと思った。藤崎にペンキをかけると、彼が着ていたシャツが真っ青に染まって、急に謝りたくなって謝った。藤崎は怒ることなく笑っていた。  自分がいた家の詳細は分からない。でも知っている部屋だった気がする』  ――俺が出てきたのか。  彼の夢に自分が登場したのは、これで二度目だ。なぜ俺が? という思いと共に、夢の細部をここまで綴っていることに驚いた。ふつうはここまで覚えていない。  ――それだけメッセージ性がある夢ってことだ。  ノートを持つ手が震えた。緊張していることを自覚した。 「色について聞きたいんですが。赤と青、それぞれどんなトーンでしたか。暗かったか、明るかったか覚えてますか」 「覚えてる。赤は鬱陶しいほど鮮やかだった。青は海みたいな色だ」  ――鬱陶しいほど。  その言葉に弦は引っ掛かりを覚えた。赤い壁を見ていて、日比谷は不快感を覚えていたのかもしれない。だが、青に塗り替えることにも積極的ではなかったようだ。嬉しくない、とノートに記されている。 「赤と青って言うのは――相反する気持ちの表れかもしれませんね」  弦は言葉を選びながら話した。ここまで夢分析で緊張したことはないかもしれない。 「正反対の気持ちってことか。でも赤の補色は青じゃないだろ」 「そうですね。赤の補色は緑だし、青の補色は橙色です。でも、こういう知識は関係ないです。日比谷さんが赤と青をどう捉えているかが大事なんです」  弦はノートを日比谷に戻した。 「赤と青、それぞれのイメージを書いてください。あと、二つの色の組み合わせについてもどう感じるか」  そこまで言ったあと、弦は息を吐いた。手のひらが軽く汗ばんでいる。ハンカチで手を拭く。日比谷に見せないように、テーブルの下で。  日比谷はすらすらとノートに書いていく。 『赤=情熱、強い気持ち、激しさ』 『青=冷静、冷たい、空、海』 『赤と青=時限爆弾のコード、静脈と動脈』  ――本能と、理性。  思い浮かんだのは、この二つのフレーズだった。  赤から青へ。つまり、本能を理性で覆い隠そうとしている――そう取れる。 「残ったペンキで、重ね塗りしようとは思わなかったんですか」 「そこまでしたくなかった。疲れてた」 「本当は塗り替えたくなかった」 「――そうかもな」  日比谷が素直に認めた。  彼がコーヒーをストローで吸い上げながら、弦の顔を見た。 「で? お前の見立ては?」  挑むような目で見てくる。 「あくまで俺の予想ですけど――」  やはり前置きはしてしまう。自分の見立てにさほど自信がないのだ。 「日比谷さんの中で、本能と理性がせめぎ合っていて、葛藤しているのではないかと。理性が今のところ勝っているけど、そのことによって日比谷さんはストレスを抱えている」  彼の心理状況は決して良くない。それだけは確かだ。本人には言えないが。  ――警告夢だろうな。抑圧している自分自身に、ストレスを自覚しろっていう。 「なるほど。じゃあ、藤崎が出てきた意味は? 青いペンキをぶっ掛けた意味は?」  日比谷の目に、いたずらっぽい好奇心が浮かんだ。  弦は返事に躊躇した。時間稼ぎにアイスコーヒーを二口飲んだ。  知っている人が青い服で登場したら、その人の助けで問題が解決することを暗示している――手元にある夢事典にはそう書かれている。だが――。  ――俺が解決? 本当かよ。  分からない。はじめから青ではなく、青いペンキを日比谷がぶっ掛けたのだから、事典の通りではないのかもしれない。 「――日比谷さんは、問題を俺に解決してほしいって思っているのかも」 「そうだ。だからこうやって会ってるんだろ。何を今さら」  日比谷が呆れたように笑った。  弦は理不尽な気分になった。  名刺の夢といい、今回の夢といい――厄介だ。日比谷に好かれているわけでもないのに、助けは求めてこられるとは。 「日比谷さんは、俺に対してどんなイメージを持ってますか。『青』ですか」  半ば確信を持って、弦は『青』を出した。 「ああ、そうだな。『青』のイメージだ、お前は。冷静で知的で、理性的だ」  誉め言葉ともとれるが、日比谷の顔を見てそうではないと察した。彼は皮肉っぽく笑った。 「俺はそんなに知的じゃないですよ」  変に期待されても困る。自分は日比谷ほど頭が良くない。同じ大学出身でも、学部のレベルは違う。 「さっきのヨガ教室の名前は?」  いきなり日比谷に尋ねられ、弦は虚を突かれた。 「さっさと答えろよ。覚えてないのかよ」  挑発的な物言いにムッとしながら、弦は口を開いた。 「『プラスターナ』」 「サンスクリット語でどんな意味だ」 「『旅』や『旅立ち』」 「――やっぱり記憶力が良い」  感心したように日比谷が目を細めて弦を見た。 「俺は駄目だ。記憶力が落ちてきている」  自虐的に彼が笑うので、弦はついフォローしたくなった。 「でも、日比谷さんだってさっきのインストラクターの話、覚えてたじゃないですか」 「違う。事前に店のサイトを見て『プラスターナ』の意味を知ったんだ」  日比谷がまた、アイスコーヒーをストローで吸い上げた。容器が氷だけになる。  弦もアイスコーヒーをさっさと飲んだ。スマホで時間を確認すると、八時五十六分になっている。そろそろ店を出なくては。 「最近会社で、会議中に抜け出して資料を取りに行こうとしたんだ。でもドアを開けたとたん、なんの資料を取りに行こうとしたのか忘れた。すぐに思い出したけど」  彼がため息を吐きながら言うので、弦は「そろそろ帰りたい」と言いづらくなった。 「そういうことは誰にでもありますよ。ドアウェイエフェクトっていうんです。やらなくちゃいけないことが頭の中でいっぱいになってると、よく起こるんです」 「そうなのか? お前もそういう経験ある?」 「ありますよ。しょっちゅう。俺の場合、家でよく起こります。帰ったらやろうとしてたことを、玄関のドアを開けたとたん忘れるんです」 「そうか。なら良かった」  日比谷が安堵したように息を吐いた。 「それだけ仕事が忙しいんじゃないですか。タスクが多すぎて頭の中が整理できていないだけですよ。やることリストを作っておいたり、会議中なら、会議に集中しておけば避けられます」  話し終えたとたん、また話しすぎた、と思った。日比谷に知識のひけらかしと取られたかもしれない。 「すみません、そろそろ俺、会社行かないと」  弦が立ち上がると、日比谷が「ああ」と呟いた。 「ありがとな。やることリスト、作ってみるよ。会議とか外出の予定は手帳に書いてたけど、もっと詳しく書くと良いかもな」  珍しく日比谷が、素直に礼を言ってくる。笑顔にも嫌味がない。 「じゃあ俺はこれで」  背もたれに置いてあったビジネスバッグとヨガウェアの入った紙袋を持ち、弦は彼に会釈した。 「また連絡する」  当たり前のように日比谷が言うので、弦は苦笑し、「はい」と答えた。
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