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アファーメーション
弦はタクシーを使って、日本橋から有楽町まで移動した。徒歩でもギリギリ間に合いそうだが、余裕がないのは嫌だったし、電車は乗換があって面倒だったからだ。
六分程度で会社に着き、始業まで時間があったのでトイレに行く。と、洗面台には先客がいた。
「お、穂村。おはよう」
彼は濡れた手をハンカチで拭いている所だった。
「おはようございます。今日は早いですね」
相変わらずこの後輩は、微笑んだ顔がちょっと儚げで、男なのに庇護欲をそそられる。
歯磨きセットから歯ブラシを取り出し、先に出て行こうとする穂村に声をかけた。
「最近、夢見たか」
穂村が振り返ってこちらを見た。瞬きを数回してから「はい」と彼は答えた。
「たいした夢じゃないですけど」
「良いから言ってみろよ」
「歯磨きしている夢です」
本当にたいした夢じゃないな、と思う。相変わらず恋人とも順調そうで、なによりだ。
「何か意味がありますか」
穂村が好奇心の浮かんだ目で、弦を窺ってくる。けっこう夢占いに興味があるようだ。
「今、歯の治療中だったりするか。もしくは、歯医者に行こうと考えているとか」
一応質問すると、穂村は首を横に振った。
そうだよな、と思う。彼の歯並びは綺麗だし、白く健康的な歯だ。虫歯も一本もなさそうだ。
「なら大丈夫だ。歯を磨く夢は、愛情面が充実している証だ。とくにセックス」
朝、仕事前に出すフレーズではないが、あえて「セックス」と言った。穂村の反応が見たかったからだ。
案の定、彼の頬には朱が走った。
――もう俺に、夢の話はしない方が良いんじゃないのか。
ちょっと呆れる。彼の恋愛は常に順調そうで、羨ましくもなった。
「穂村は細いけど、何気にちゃんと筋肉あるよな。何か運動してる?」
弦が話題を変えてやると、穂村の顔から焦りが消えた。
「一応、土日はジョギングしてます。家の周りを軽く、ですけど」
「他には?」
「たまにボルダリングに行ったり、テニスしたり、ですかね」
「そうか……」
どちらも一人で行くというより、複数で楽しむスポーツだ。いや、ボルダリングは一人でも大丈夫か。
「ボルダリングって、どこに行ってるんだ?」
ロッククライミングなら、全体の筋肉を使うし、楽しんでできる筋トレになりそうだ。
「渋谷と銀座のジムに」
「へえ、銀座にもあるのか」
だったら会社帰りに行ける。
「俺も行ってみようかな。銀座のジム」
「あ、それなら今度一緒に行きますか」
「ああ、ぜひ」
一人で初めての場所に行くより、信用できる人間と一緒の方が良いに決まっている。
弦は己の腹部を見下ろした。決して太っているわけではないと思うが――確かに日比谷に言われた通り、締まりがない。
――もうちょっと良い体になって見返してやりたい。
自分は案外負けず嫌いのようだ。
――楽しめると良いな。ボルダリング。
基礎体力を上げるためにも、明日の朝からジョギング、筋トレをしよう。
穂村がトイレから出て行き、自分だけになる。
弦は鏡に映る己の顔に向かって、話しかけるように呟いた。
「俺は毎日、ジョギングをして、筋トレも二十分やる。できる」
一拍置いてから、また鏡に話しかける。
「俺の体に締りが出てきて、俺は運動が好きになる」
傍から見たら「バカじゃないの」といわれそうな行動だが、これは歴(れっき)とした自己暗示療法――アファーメーションだ。
あえて「良い体になってモテるようになる」とか「彼女ができる」なんてことは呟かない。運動でも勉強でも、ご褒美目当てにやっていては、長く続けられない。
アファーメーションを終わらせた弦は、簡単に歯を磨いて、トイレを後にした。
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