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シンパシー
翌朝は、ふだんより三十分早い七時半に、『Sit Still, Look Pretty』で目を覚ました。
伸びをして、ベッドから出る。昨日の朝、片付けたはずなのに、床にはまた、本や新聞が積まれ、それらを足で蹴ってスペースを作りながら寝室を出て居間を突っ切り、洗面所に向かった。
鏡に映る代り映えしない顔を眺めながら、歯磨きを始めた。が、すぐにカツンと何かが落ちる音がして、弦はブラッシングをやめた。洗面台を見る。顔を下に向けたせいで、また落ちた。カツンカツンカツンと、水垢だらけの陶器に歯がぶつかって、排水溝に吸い込まれていく。歯が。
これ以上抜けたら堪らない――慌てて口に手を当てた。そこで目が覚めた。
目を開けた瞬間も、手は口を押えていた。
「はあ……」
ゆっくり息を吐き、たった今見た夢を思い返す。
複数の要素がある夢だ。まずベッドで目を覚ます――これは、疲れがたまっているから休みを取れ、というサインだ。
汚れた部屋――これは心が混乱しているという意味。軽はずみな決断をするなという警告でもある。
そして歯が抜ける夢。自分の能力や体力に自信をなくしている、という暗示。
――悪い要素ばっかりだな。
いちいち夢を気にするのが嫌になってくる。
弦はベッドから下りてパジャマを脱いだ。ジャージの上下に着替え、水分を摂ってから外に出る。
自宅から一分もかからずに『月島駅』に着く。準備運動の代わりに足踏みしてから、もんじゃストリート方面に走り出す。不動産会社やファストフード店が入った雑居ビルを通り抜け、どこの店もシャッターが閉まっている月島西仲通り商店街を、マイペースで走った。最初から頑張ったらすぐにへばるのは分かり切っている。
弦は月島の名物『もんじゃストリート』の雰囲気が気に入っていた。下町風情があって、店が開いている時間帯は美味しそうな匂いが常に漂ってくる。粉物やソースの焼ける香ばしい匂いや人の賑わいは、健全な街を感じさせてくれて、安心できるのだ。
だがしかし、朝はそんな雰囲気はなく、走っていても無味無臭だ。心が弾むこともない。
――俺、走るの好きじゃない、そもそも。
一番大事なことが頭から抜けていた。ある程度好きなことじゃないと続かないのに。
――日比谷さんも穂村もジョギングしてるっていうから、つい。
便乗してしまったが。もっと楽しめて、体の引き締めに効果的なスポーツはないだろうか。朝の時間帯で――。
走るのをやめ、弦はジョギングからご近所探索にシフトチェンジしていた。
もと来た道を通り、ファストフードのビルまで戻る。曲がり角を左折すると、いつもは気にも留めなかった『月島スポーツプラザ』の入っているビルが視界に入った。ここは、区営の総合スポーツセンターだ。たしか温水プールもあった。
――水泳の方がまだ楽しめるかもな。
弦は中学に上がるまでスイミングスクールに通っていた。一応四泳法をマスターしていた。今、どの程度泳げるかは全く分からないが。
エントランスドアの前でなんとなく佇んでいると、弦の脇を男二人が通り過ぎていく。どちらも二十代半ばで、なかなかのルックスだった。一人は百八十センチを優に超えていてスポーツ選手のようにガタイが良い。もう一人は弦より背が低い。百七十センチぐらいだろうか。スリムな体型だが、体が締まっている。
ガタイの良い方が、スポーツバッグを持っている。防水用の半透明のバッグだから、中身が透けて見える。バスタオルと、スイムパンツ、ゴーグル。
颯爽と歩きながら、彼らはビルの中に入っていく。通いなれている感じがした。
――やっぱり水泳やろう。
ジョギングより水泳の方がカロリーを消費するし、肩こりの改善にもなるし、なにより筋肉がつく。肩あたりが特に。
とりあえず今日は、受付でプールの利用方法を聞いて、明日からスタートできる状態にしておこう。
弦は物怖じせずにスポーツプラザに足を踏み入れた。ヨガ教室のように綺麗じゃないし、洒落た室内でもない。そこが気楽に入れて良かった。
ロビーの受付で、施設の利用方法を一通り聞き、まだ時間に余裕があったので、併設されているスポーツショップでスイムパンツとゴーグルを購入した。
自宅に帰ると、すぐに朝食の準備をして、トーストと牛乳、コーヒー、サラダを順番に口に入れながら、テレビから流れるニュースを眺めた。
八時十五分になったとき、傍らのスマホが鳴った。発信元を確認する。
『日比谷』
――朝からなんだよ、一体……。
一瞬、出るのが面倒になったが、すぐ思い出した。彼の精神状態が良くないことを。それに、また警告夢を見たのかもしれない。
弦はツーコール目で電話に出た。
日比谷は名乗ったあと、「いま話しても大丈夫か」とお伺いを立ててきた。声に遠慮はなかったが。
「大丈夫ですよ。また気になる夢でも見ましたか」
「いや、見なかった。昨日は珍しくぐっすり眠れた」
心なしか、日比谷の声が明るく聞こえる。
「それなら良かったです。ヨガが効いたのかもしれませんね」
「そうだな。ヨガ、続けようと思ってる」
「あのスタジオに通うんですか」
彼一人で通うぶんには大いに結構だが。また自分を道連れにするのはやめて欲しい。
「いや、もう通わない。ポーズも全部覚えたし、家でやろうと思う」
「え、ポーズ全部覚えたんですか」
それは凄い。弦は半分も覚えていなかった。
「あのスタジオの雰囲気が好きじゃないから。もう行かなくていいように覚えたんだ」
苦笑混じりに日比谷が言うので、弦は親近感を覚えた。
「日比谷さん、記憶力良いですよ。全然衰えてなんかない」
弦は素直に褒めた。彼を安心させたい気持ちもあった。
「ならいいけどな。お前は最近、夢とか見ないの」
珍しく、彼が弦自身のことを聞いてくる。
「見ましたよ」
弦は一度、スマホを耳から離し、ディスプレイに表示された時刻を確認する。まだ時間に余裕がある。
「あんまりいい夢じゃなかったですけど」
「話せよ。勿体ぶるな」
日比谷らしい言い様。多分、会社ではこんな話し方しないだろう。別れた恋人に対しても。日比谷は昔から、弦にだけ意地悪だったし、傲岸不遜だった。彼はペルソナをどれほど持っているのだろう。
「朝起きて、洗面所に行って、歯が抜ける夢で――」
夢の概要、見解を述べると、日比谷が興味深そうに相槌を打ってくれる。
ここに来て、突如弦は気がついた。
――日比谷さんと俺って、けっこう気が合うのかもしれない。
お互い心理学に詳しいし、学部のレベルは違ったが大学は同じだった。サークルも。昨日行ったヨガ教室の雰囲気もお互い嫌だと感じていた。
一通り、弦の見た夢の件で会話が続いた後、不意に日比谷が聞いてきた。
「仕事、大変なのか」
「まあ、そうですね。この時期は査定と昇給で忙しいです。人事なんで」
仕事は膨大な量なのに、残業や休日出勤を制限されている――そんな板挟み状態がきつかった。過労死ラインを超えることなく、健全な職場環境を提供する人事部が、自ら見本を見せなくてはいけないからだ。ここ数年はとくに、時間外労働に上から厳しいチェックが入っている。
「無理するなよ。自分の体力に自信がなくなってるなら」
気遣うような物言いに、弦はちょっと困った。
「歯が抜ける夢は、日比谷さんのせいだと思いますけどね。昨日、ヨガ教室でダメ出ししてきたじゃないですか。俺の腹触って」
あれでもろに、自分の体の劣化を感じてしまった。大学の頃はもっと体が締まっていたし、いくら食べても太らなかったのに。代謝が良かった。
「俺のせいか。悪かったな」
素直に日比谷が謝ってくるので、弦は自分の耳を疑った。彼らしくない。
「でもお前の腹はマジでやばい」
やっぱり彼らしい。弦はちょっとホッとした。
「分かってますって。一応危機感は覚えてるんで。ちゃんとします」
弦も素直な気持ちになっていた。日比谷がただ自分を貶したいわけではないと分かったからだ。彼の「やばい」には、心配が紛れている。
弦は自分の年齢を意識した。二十九歳。ただの「若い」ではなくなった。「まだ若い」と言われる年齢なのだと。
「今度、テニスでもするか? 良い運動になる」
「良いですね。やりたいです、久しぶりに」
お互い四年間、テニスサークルに所属していたのだ。ラリーが続くだろうし、楽しめるだろう。
「じゃあ、今度の土曜か日曜に」
日比谷が一方的に言って、弦の返事を聞く前に電話を切った。
相変わらず勝手なところはある。が、弦は苦笑するだけに留める。
嫌でも気がついてしまった。お互い寂しくて、何か変化を欲しがっているのだと。
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