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テニス
次の日の朝、待ち合わせの時間より二分早く、弦は西葛西駅の自動改札機を通った。とたん、視界に日比谷の姿が入った。相変わらず外見は良い。アディダスのロゴが入ったテニスウェアを着ているが、防寒のため、上は長袖、ハーフパンツの下に黒いスパッツを穿いている。スタイルが良いからなかなか様になっている。ラケットとスポーツバッグを右肩に掛けて、弦に向かって左手を上げてくる。
「どうも」
弦は会釈をして答えた。自分もテニスウェアだが、さほどお洒落ではない。三年ぐらい前に買った、引き出しの肥やしになっていたヨネックスの長袖のゲームシャツとハーフパンツ。日比谷と同様に、下に黒いスパッツを穿いていた。元彼女と何回かテニスをしたときに着ていた物だ。ラケットは大学時代に使っていたもので、年季が入っている。ガットの張りが甘いかもしれない。
ふたりはおざなりに挨拶を済ませたあと、目的の場所に徒歩で向かった。
「車でも良いかと思ったんだけど――歩きの方が運動になるしな。お前のためにもなるだろ」
「一言多いです」
弦は不機嫌を隠さずに言った。やっぱり今日ここに来るのは面倒だったのだ。プールにも行きたかったのに。
「本当のことだろ? そのタプタプの腕と腹、どうにかしろよ」
「日比谷さんって……俺には遠慮がないですね」
二人は、携帯ショップや銀行のビルが立ち並ぶ大通りをまっすぐ歩き続けた。まだ朝の早い時間だ。店はどこも閉まっている。
喧嘩にはならないが、お互い言いたい事を言い合っているうちに、緑が豊かな地帯にさしかかった。野球場や、レクリエーション公園が見えてくる。
「もう少しだ。今日は晴れて良かったな」
「そうですね」
緑地帯を抜けて道を左に曲がると、テニスコートが遠目に見えてきた。乗り気じゃなかったはずなのに、一気にテンションが上がった。
日比谷の歩調が速くなったことに気がつき、弦はちょっと笑った。負けずに小走りになって、テニスコートを目指す。
「なんだ、やる気満々だな」
日比谷がバカにしたように言って笑う。
「日比谷さんだって嬉しそうですよ」
けっきょく二人は競い合うようにして金網が張られたテニスコートの入り口に駆け込んだ。やはり日比谷が先に入ったが。弦は苦笑して彼に続いた。
六面あるテニスコートのうち、三面はすでに人で埋まっていた。どこも四人以上はいる。二十代ぐらいの女性だけのグループもあって、明るいはしゃいだ声が聞こえてきた。
「さ、やるか」
日比谷は周りに興味を示さなかった。さっさと弦に球を放ってくる。硬球を二個、ワンバウンドで受け取り、弦は彼のいる反対側のサービスラインに走った。
弦が構えのポーズをとる前に、容赦なく鋭いサービスを打ち込んでくる。弦が立つ側のアウトラインにボールが擦る。
「ちょっ……! 初めからそんな強いの打ってこないでください。返せるわけないでしょう」
敬語で異議を唱えるのも疲れる。本当は。
「反対側狙わないだけ優しいだろ」
日比谷が悪びれた様子もなく言ってのける。
「ラリーが続かない、こんなんじゃ」
「まあ、そうだな」
「試合じゃないんで!」
「わかったよ」
珍しく日比谷が折れてくれた。
それからは打ち返しやすい場所に、緩いボールを送ってくれるようになり、弦はコンスタントに打ち返すことができるようになった。ラリーが続いて、面白い。
そのうちテニスをしていた頃の感覚がよみがえってきて、リアクションが早くなっていく。
弦は夢中で、日比谷が打ってくる球に反応し、追いかけた。周りの音が消えていく。自分の足音と、ボールが弾む音、そして忙しない呼吸が耳に響く。無になれる瞬間が、気持ちいい。
テニスを終えたのは、二時間後の午前十時。予約をとった時間ギリギリまでテニスをして、弦と日比谷は、テニスコートを後にした。
二時間で、飲んだスポーツドリンクは二本。一リットルだ。
二月の朝はまだ寒いというのに、二人は噴き出た汗をタオルで拭いながら、元来た道を歩いた。
「俺の家に寄って行けよ。シャワー貸してやるから」
「あ、良いんですか。ありがとうございます」
弦は素直に日比谷の申し出を受ける。全身が汗にまみれていて気持ちが悪い。一秒でも早くシャワーを浴びたかったのだ。
一週間ぶりに日比谷の部屋に入った。この前と同じように、室内は掃除が行き届いており、家主の几帳面さが窺える。
「日比谷さんってほんと綺麗好きですね」
少し緊張しながら、弦は促されるままにシャワールームについていく。
「感心してるって口調じゃないな。呆れてるのか?」
むっとした表情になって、日比谷がバスタオルを棚から取り出し、弦に手渡してくる。
「着替えは持ってきてないよな」
確認するように言われ、弦は頷いた。テニスが終わったらすぐ家に帰ろうと思っていたのだ。
「じゃあ、お前が入っている間に着替え置いておく」
そういって、日比谷は脱衣所から出て行った。弦は脱衣所を一通り見る。汚れのない洗濯機、洒落た洗濯籠二つ、さっきちらりと見えた棚の中には、整然とタオル類が積まれていた。防水加工が施されたフローリングの床には、毛一本落ちていない。よけい、緊張感が増した。これは、絶対、汚せない。
風呂に入ってからも緊張した。いちいちどれもこれも綺麗に磨かれていたからだ。洗い場の樹脂素材の床はもちろん、バス用の椅子からシャワーノズルまで、黒ズミなんて一つもないほどピカピカだ。
――感心するっていうより、怖い。
緊張を強いられる部屋に閉じ込められたような、居心地の悪さがあった。
弦は手早く体中の汗を流し、頭にも湯をかけた。あとでドライヤーを貸してもらおう。
浴室から出ると、洗濯機の上に着替えと、新品の下着が置いてあった。白いブリーフ。
――日比谷さんってブリーフ派なのか。
意外なような、納得できるような。
弦はこの十年ほどはボクサーパンツしか穿いていなかった。
久しぶりにブリーフを穿くと、違和感があった。が、これしかないので仕方ない。汗でじっとり濡れたパンツを穿くよりはマシだ。
着替えはグレーのロングTシャツと、生成り色のカーゴパンツだった。どちらも弦には大きかった。カーゴパンツに至っては、ウエストがぶかぶかで、ベルトが欲しいぐらいだ。
弦は自分の脱いだテニスウェアを適当に畳んで腕に抱えた。
「シャワー、ありがとうございます」
テニスウェアのまま、リビングのソファに座っている日比谷に声をかける。
「ああ」
ちらりと弦を見たあと、彼はソファから腰を上げ、「俺もシャワー」と言って、浴室に歩いていく。
なんだかホッとして、体からは緊張が抜けた。弦はソファに座って、髪をバスタオルで拭いた。その手の動きが、緩慢になっていくのが自分でもわかる。瞼が重くなっていくのを止められない。
日曜日なのに六時半起きの上、二時間テニスで走りっぱなしだった。楽しかったから良いのだが。
隣のコートは女性だけのグループで、たまにボールが弦たちの方に飛んできた。それを弦が取って、返したとき、彼女たちはさほど嬉しそうじゃなかった。なのに――日比谷が球を投げて返すとき、女性は頬を赤らめ、「ありがとう」以外にも一言、二言、何か言っていた。
――日比谷さんといると、俺は引き立て役だよな……。
外見のレベルが違うわけで、仕方がないことなのだが。日比谷はモデル並にスタイルが良く、顔も美形なのだから。
――俺だってけっこうモテてたんだけど。
中学、高校、大学と彼女がいた。童貞を捨てたのは中三。早い方だ。社会人になってからも、彼女がいなくて寂しい期間なんてあまりなかった。今回が一番長い。一年。
――まあいいや。彼女いなくても。
まだ独身でも。二十九だし。
ゆっくり構えていよう――そんなことを思いながら、弦はソファのひじ掛けに頭を載せた。
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