友達のような

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友達のような

 ニンニクを炒ったような、食欲をそそられる匂いがして、弦はゆっくり目を開けた。すると、真っ白い天井が視界に入った。いつの間にかソファに仰向けになって寝ていた。毛布も掛けられている。  慌てて上体を起こすと、キッチンの方から「起きたか」と声をかけられる。 「はい、すみません――寝てましたね」 「ああ。疲れてたんだろ。いま昼飯作ってるから食べて行けよ」 「良い匂いしますね」  言ったとたん、急激に空腹感が襲ってくる。 「ガーリック炒飯だ」  なるほど。ニンニクとバターが絡まったような油っぽい匂いがする。それと、焼き豚の焼けた匂いも。 「何か手伝いますか」  一応申し出ると、「じゃあ、麦茶でも淹れておいて。二人分」と返ってくる。 「わかりました」  弦はソファから立ち上がり、キッチンに向かった。カウンター前に設置された冷蔵庫を開け、麦茶の容器を取り出した。 「コップは棚から取って」  キッチン奥でフライパンを振りながら、日比谷が指示してくる。  冷蔵庫の隣の食器棚から、適当にコップを二つ選んで取り出し、リビングに戻る。  ――なんかこういうの新鮮だな。  まさか、日比谷の部屋で彼の手料理を食べることになるとは。更に、他人の冷蔵庫を開けて、お茶を注いでいる。  今までこんなことはしてこなかった。偶然なのだろうが、これまで付き合ってきた女性は皆、実家暮らしだった。だから彼女の部屋に遊びに行くということもなく、外でデートするか、弦の部屋に招くかだった。  ソファに座って待っていると、すぐに日比谷が皿を二つ持ってやってきた。  黄金色のご飯に、刻んだネギ、さいころ型の焼き豚がまじりあって湯気を立てていた。これは美味しいに決まっている。  弦は「いただきます」と言いながらスプーンを手に取り、かきこむようにして炒飯を口に入れた。やっぱり美味しい。味はバターニンニク醤油だ。男が好きな味。 「美味しいです」 「だよな」  満更でもなさそうに、日比谷が口角を上げた。クールな笑み、というのだろうか。彼が女にモテるのが分かる気がした。  すぐに炒飯を平らげてしまうと、また眠気が襲ってきた。相当自分は疲れているようだ。テニス二時間はもちろん、四日連続でプールに通い、筋トレをしたのが体にキているのだろう。 「眠いのか。だったらベッドで寝ろよ。シーツ取り換えてるし綺麗だから」 「いや、そこまでは、さすがに」  図々しいだろう、それは。理性が頭の中で訴えているのに、弦は本能に抗うことができなかった。日比谷に背中を押されるようにして、寝室に連れて行かれる。  引き戸を開けて中に入る。ダブルベッドに部屋を占領されていて、他のスペースがない。寝るだけの部屋、といった印象。 「ほら、遠慮しないで寝ろよ。俺も寝る。眠い」 「はあ」  色々突っ込みどころがある展開なのに、弦は考えることを放棄した。とにかく眠い。疲れた。  欠伸を連発しながら、弦はベッドに転がり込み、目を瞑った。とたん、マットレスに体が沈んでいく。どんどん自分が落ちていくような――怖いような気持ちが良いような感覚を覚えたが、すぐに消える。弦は速攻で眠った。  スマホのアラーム音が遠くで鳴っている。弦は寝返りを打った。とたん、温かい何かに手が当たった。 「えっ?」  自分の声で目が覚めた。手に当たったのは、日比谷の背中だった。  弦は慌てて、ベッドから体を起こした。室内は暗い。 「何時だよ……」  独り言ちて、ベッドから下りる。 「日比谷さん、起きてください。だいぶ寝てしまったようです」  敬語で話すのが面倒すぎる。弦はリビングに向かい、室内の電気を点けた。  壁時計が視界に入る。――十八時二分。  ――寝すぎだ。  日比谷も相当疲れていたのだろう。この時間まで起きないとは。  リビングから寝室を眺める。と、彼がベッドから体を起こしているのが見えた。 「俺、帰りますね。すみません、こんな時間まで寝ちゃって」  参った。こういう展開は全く予測していなかった。  弦はリビング内に置いてあったラケット、スポーツバッグを手に取り、木製のポールハンガーから、中綿入りのウィンドブレーカーを引っ張って取る。 「そんな急がなくてもいいだろ。外に夕飯食べに行こう。そのあと、車で送ってやるから」 「ええ? そこまでしてもらえませんよ」 「俺がテニスに誘ったんだから良いんだよ」  欠伸をしながら日比谷が言う。その口調は、いつもより鋭さがなくて、表情も柔らかだ。寝起きだからだろうか。  ちょっと、弦をホっとさせるような、顔。 「じゃあ、お言葉に甘えて……」  正直なところ、日比谷の申し出は有り難いものだった。電車で家に帰るのは億劫だったし、食事も帰る途中で済ませた方が楽だ。  日比谷の車で弦の家に向かう間、これといって入りたくなる店も見つけられずに月島に着いてしまった。日比谷の希望で、もんじゃストリートの店に入ることにした。  店おススメの、豚ネギ、エビマヨ、もちチーズをオーダーして、二人で分けて食べた。  生地を混ぜたり、焼いたりは、弦がした。月島に住み始めてから七年が経つのだ。もんじゃを焼くのだけは上手だった。  お互い気を遣う事もなく、会話をする努力もしなかった。沈黙がそれほど苦にはならなくて、お互いの仕事のことと、世間話を食べる合間にしたぐらいだ。   食事を終えて、店を出たところで、ようやく二人はそれぞれの家に帰ることにした。 「楽しかったよ。今日はありがとな」  日比谷が車のキーを人差し指でくるくる回しながら手を振った。彼は店の裏のコインパーキングに向かうのだ。 「あ――俺も楽しかったです。ありがとうございました」  弦は軽く会釈した。 「また連絡する」 「はい」  待ってます、と言いそうになってとどまった。なんとなく照れくさくて。  弦は自宅まで歩く間、今日あったことに思いをはせた  けっこう至れり尽くせりだった。昼は手作りの炒飯を御馳走してくれたし、夕飯は奢ってもらった。家の近くまで車で送らせてしまったし。  そして何より――楽しかった。だから時間があっという間に過ぎてしまった。寝ている時間が長かったからかもしれないが。他人のベッドであんなに熟睡したことって今まであったか? と自問した。――ない。 今日に限っては、先輩と後輩でも、クライエントとカウンセラーの関係でもなかった。友達みたいだった。  気分よく部屋に着いたとたん、あ、と思い出した。毎日泳ぐというノルマを達成していない。一度さぼったら、なしくずしになる。そんな気がする。  まだ疲れている。が、心地よい疲れのレベル。だいぶ体力は回復している。  スポーツバッグからテニスウェアとタオルを引っ張り出し、空っぽにしてから、室内に干しっぱなしだったスイムパンツとスイムキャップ、ゴーグル、タオルを中に押し込む。  スマホで時刻を確認すると二十時ちょっと前。まだ時間がある。プールは二十一時まで開いている。  弦は急いで部屋を出た。
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