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友達
「藤崎さん、ちょっと痩せました?」
隣からいきなり声を掛けられた。弁当をデスクに広げているときだった。
「あ、やっと気がついた?」
弦はつい身を乗り出して、穂村の方を向いた。
「体重はそんなに変わってないけどな。引き締まったと思わない?」
ワイシャツの袖のボタンを外し、腕まくりをした。肉を摘まんでみると、確実に、前よりは弛みがなくなっている。
「そうですね……横顔もシャープになったような
「顔!」
それは嬉しい。痩せて一番わかりやすい部分だ。
――じゃあそろそろ、日比谷さんにお披露目したいな。
さんざん緩んだ体にダメ出しされたのだ。見返すときだろう、今が。
穂村がデスクの上を片付けながら、「あ」と思い出したように声を発した。
「そういえば、今度一緒にボルダリングに行こうって話してましたよね」
「あ――そうだな」
すっかり忘れていた。
彼とそんな約束をしてから一か月が経っている。その間、毎日プールに通い、毎週土日のどちらかは日比谷とテニスに興じていて、生活が二つのスポーツで埋まっていた。いまの弦に、ボルダリングまでやろうなんて余裕は皆無だった。だが、それを正直に言うのは後ろめたい。自分の方が乗り気だったのに。
「今週は、ビジター割もあるみたいなんですけど」
穂村が珍しく積極的だ。
「じゃあ今度の金曜日、行こうかな。都合はつくか」
一回ぐらい、ボルダリングを経験してみるのも良いかもしれない。前向きな気持ちになる。穂村のプライベートも覗いてみたい。
「大丈夫ですよ。では金曜日に」
財布を持って、穂村が席を立った。コンビニか総菜屋に、昼食を買いに行くのだろう。
弦は手元にある弁当を見た。だし巻き卵、ピーマンとハムの塩コショウ炒め、昨日の夕飯の残りのハンバーグ――まさか自分が朝の隙間時間を縫って、弁当を作るようになるとは。きっかけはネットの記事だ。ダイエットするにも、筋肉を効率的に増やすのも、運動だけではなく、食生活が大事なのだと。
だったら、外食と買い食い中心の生活も改めなくては――そんな決意をして、自炊をするようになった。案外料理は簡単だった。スーパーで特売になっている野菜、肉、魚を買ったら、ネットでそれらを使った料理を検索する。弦でも失敗しないで作れるレシピが沢山載っているのだ。
この一か月、健康的に過ごしている。ゲームをする時間も減り、無駄な課金をすることもなくなった。
弁当を半分食べたところで、スマホが振動した。誰からメッセージが来たのかは見当がつく。一応発信元を見ると、『日比谷』。
やっぱり――というか、彼以外にメッセージを送ってくる相手はいない。
『今週は土曜日、朝八時から。いい加減、自分の着替え、持って来いよ』
LINEの吹き出しを見ながら、弦は苦笑した。その通りだな、と思って。
毎週、西葛西のコートでテニスをしたあとは、彼の部屋に行ってシャワーを浴びさせてもらい、服を着替える。毎回、返そうと持ってきた彼の服や、新品のブリーフは、けっきょく自分が使うことになるのだ。その結果、弦の部屋の箪笥には、ボクサーパンツと同じ数のブリーフが仕舞われている。
『わかりました』
短い一言を打ち返し、弦はだし巻き卵を口に運ぶ。
先週の土曜日がどうだったか、思い返す。
八時にテニスを開始して、二時間たっぷりテニスをした。彼の部屋に行ってシャワーを浴びたあと、一時間、カウンセリングっぽいことをした。睡眠は取れているか、食欲はあるか、ストレスは溜まっていないか等、フィジカル、メンタル、両方の調子と、最近見た夢の話も聞いた。これといって気になるところ、心配な兆候は見られなかった。失恋から立ち直ってきているのかもしれない。
――俺のカウンセリングが効いたってわけじゃない。
ただ単に、時間が解決してくれた。それだけのこと。
――俺と遊んでて気晴らしになった、ってのも多少あるかも。
カウンセリングのあとは、いつものように日比谷が作った昼食を食べ、汗をかかないぐらいの緩いヨガをして、昼寝して、夕方に起きて、外で日比谷に夕飯を奢ってもらって、家まで送ってもらった。
彼とは話が合う。この前は心理学を扱った映画の話題で盛り上がった。弦が好きな映画を、彼もほとんど見ていたのだ。
ほぼ一日一緒にいたのに、相手に対し苛つくこともなく、笑った回数も片手以上。楽しい。退屈しない。
――もう、ほんと、友達って感じだよな。
弦はもう一度スマホを見た。LINEのメッセージ。土日空いているか聞いてくることもない。土日どちらかは会うのが前提になっている。
「LINEもな……」
弦は独り言ちて、あわてて咳ばらいをした。
日比谷とLINE友になったのは三週間前だ。それからというもの、一日一回はメッセージのやり取りがある。夢ネタのときもあれば、仕事の愚痴、今何をしているかの報告、こっちは局地的な雨、とか天気の実況もある。
弁当を食べ終わり、弦はスマホを手に取って、LINEの履歴を見る。
日比谷からのメッセージは砕けた日常語だが、弦のそれは相変わらず敬語だ。ちょっと自分が余所余所しい態度を取っているような気がする。
――でも、先輩だしな。
自分がタメ語を使っても、日比谷は怒らないかもしれない。でもケジメは大事にしたい。
本来、自分たちは友達になれるような間柄ではなかったのだ。日比谷の「失恋後」という、特殊な状況から始まった関係だ。
――完璧に立ち直ったら、俺を誘ってくることもなくなるのかもしれない。
そう思ったら寂しくなった。立ち直ることこそが、彼の目標だというのに。
自分にとっても、日比谷との関係が百パーセント良いものではないと分かっている。
最近弦は、彼女が欲しいと思わなくなっていた。
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