偽りのキスー1

10/27
前へ
/27ページ
次へ
「あの……、経営企画室の夏目結衣と申します」 昔からそうだった。 理由に心当たりはないのに、彼はどこか私を遠ざけようとしている気がして、彼を前にすると気後れしたものだった。 そんな昔の記憶が蘇ったせいか、まるで初対面のような台詞になってしまった。 「忘れていませんよ。お久しぶりです」 面白がっているような声音に顔を上げると、彼は穏やかな表情で微笑んでいた。 その微笑を見た時、そっと背中を撫でられたような震えが走った。 宏樹さんに対してだけでなく、今まで誰にも感じたことのない感覚だった。 「お久しぶりです。あの……十年ぶりですね」 「そうですね。兄をよろしく」 「こ、こちらこそ、よろしくお願い致します」 この場を簡潔にまとめるような彼の台詞で、彼は忙しい身なのだと思い出し、私は慌てて頭を下げて本部長室から退出した。 自分の席まで大部屋を横切りながら、胸に手を当てる。 私は昔の苦手意識をまだ引きずっているのだろうか? 自分の挨拶が無様だったことに少し落ち込む。 胸はまだざわついて、それはどこか不安なような、畏れに似た不思議な感覚だった。
/27ページ

最初のコメントを投稿しよう!

986人が本棚に入れています
本棚に追加