三月六日 夕刻

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三月六日 夕刻

 定時退社とは、今や幻想そのもの。昨今変わらず日本人は夜遅くまで働いていて、実に社会規範に誠実であると窺えるだろう。  その真面目な姿も幻想なのかもしれない。純は真横でクロスワードパズルに熱中している先輩社員を見やり、力なく笑った。 「氷川さん、そんな事してたらプレゼン用の資料完成しませんよ」  数字しかなかった世界に、突然耳から迷い込んできた字句そのものを修一が理解するまで数秒の時間を要した。彼は鉛筆を机の上に放り、椅子に深く座り込んだ。 「もう少しで思いつきそうだったのに声かけるなよ」  知的快楽を堪能している中の横やりが迷惑だとは純も心得ていたが、迷惑だとはお互い様なのだ。 「あのね、氷川さん。元々あなたが一人で完成させる予定だったものを、部品の説明が全く分からないってことで僕がしっかり勉強し、氷川さん用の資料まで作ったんですよ」 「ありがとなあ」  気の抜けたような物言いに、純も腑抜けて苦笑した。  車という商品の作成過程で、その土台を務めるのが今度のプレゼンだ。部品の概要を一分に纏め、工場勤務の彼らに分かりやすく説明しなければならない。  特に今度の車は新製品だ。新しく仲間になった部品の危険性や、機能、保管方法さえも細かく資料に束ねなければならない。  ハンドルのない車。つまり、自動運転だ。運転席という物が必要ないから、ステアリングが不要になったのだ。代わりにその位置に速度調節や、残存エネルギー測定器具が置かれることになる。ガソリンの位置も多少変わり、変革的な動きのせいで社内は大きく揺れ動いている。 「今日はどうしても定時であがらなくちゃいけないので、頼みますよ氷川さん」  パズルの本を閉じた修一は瞼を大袈裟にも動かし、純の肩を叩いた。 「お前、それ定時十分前に言うか」  常日頃からの鬱憤を晴らす瞬間だ。  残業に残業が重なるのは常に修一という存在があるからだ。今日はクロスワードパズルをやっているが、昨日は論理力を鍛える三分トレーニングという本を持参し、ところ構わず唸っては、パソコンに向かい合っている純に問題を出していた。  ビール奢るから手伝って! は彼の謳い文句であり、愚かと自覚しながらも乗ってしまう純もいる。ビールのためではなく、紗香と武尊のためだ。
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