三月六日 昼

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 警察の話が終わるとディナーの話に移り変わって、長話の気配を感じ取った純は「あんまり長いと先輩に怒られるから」と言って切った。  大手自動車会社の傘下に属する部品メーカー「大谷工業」の一人として働いていた純にとって、トイレを装って休憩室に駆け込んだ事ですら肝っ玉を冷やす行為なのだ。  大谷工業の五代目社長、古谷(ふるや)聡一(そういち)が苦労して取り入った会社だ。  数百人はいる社員の中、一人の粗相だけで会社同士の縁が切られるとは思えないが、心象を下げるわけにはいかない。ましてや納期を守れずに残業なんて、もってのほか。  一年ぐらい前事実上残業の撤廃が親会社から指示された。月の残業時間は最大五時間。これは以前、一人の人間に対して百時間の残業が課せられた時に、当人とは別の人間が上部に告発して出来たルールだ。  更に言えば残業をするほとんどの人間が個人的な事情のため。例えば、効率の悪い作業工程。談笑してばかりの社員。無責任に仕事を押し付ける上司。  様々な問題が絡み合う中、解消手段として残業上限がなされたのだ。  反発する社員は多かったが、古谷はルールを受け入れた。来月から残業上限が五時間になりました、と社内メールで届いた時には、ほとんどの社員が溜息をついたのだ。  それが理由で退職した社員も少なくなかった。おかげで一人当たりの仕事量が増え、結局上限を超える人間もいた。ほとんどの社員は五時間以内に収めようと努力して実ってはいるが。  五時間を超えたら残業代は出ないし、毎月来る注意勧告のメールを受け流さねばならない。  人当たりの良い純は少なからず打撃を食らっていた。  大谷工業は大きく二つの部門に別れる。傘下になっている自動車会社のオフィスで部品を選定し、発注、点検をする部署と工場で部品を組み立てる部署の二つである。  純は部注と略されているオフィスで働く人間で、残業が多いと問題になっている担当部の仕事を扱っている。  部品の発注とはいうが、簡単な仕事ではない。自動車の部品はあまりにも数が多いし、素人が見てすぐに理解できるような名称では書けないのだ。 「S-V333」と書かれた部品は、日本語に強引に翻訳すると"電気自動車フォグランプバイパス"と言うことができる。正式に翻訳したらもう少しまともな日本語になるだろう。
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