三月六日 昼

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 部品の数に加えて、日々技術は進歩している。新たな自動車が開発される度に新たな名称の部品も増える。  脳に部品名称を直接刻み込めたら、どれだけ楽か。 「嫁さんかい」  先輩の氷川(ひかわ)修一(おさむ)は茶々を入れるような、いたずらっぽい笑みを浮かべて純を出迎えた。純は彼の隣のデスク、肘置きが備わった椅子に腰を降ろした。 「家に警察が来たって。ビックリしてました」 「ほお警察かい。そりゃ大変だろうに。紗香ちゃんの神経症にさわらないといいんだが」 「大丈夫ですよ。さっき嬉しそうにハンバーグの話をしてきましたからね。今夜はアメリカンディナーですわ」  体付きが丈夫ではなく、細い紗香は心も脆かった。結婚する以前から、彼女の気弱な気質にはそれとなく苦労をしていた。  心が脆いのに彼女自身は心配性で、その上人に尽くすから体調はよく崩していた。今でも変わらないが、純が一度結婚に向けて自分の健康を一番に大事にするように言った時からは心身とも落ち着き始めたが、彼女の心臓をガーゼで覆い包んだだけだ。 「いい嫁さんだよなあ心配して電話をよこしてくれるって。俺なんて今日も買い物を頼まれたんだよ。いやあ面倒くせえわ」 「氷川さんの家族、僕は好きですけどね」 「やめろい」  パソコンのキーボードを打つ音しか聞こえてこない室内での私語は場違いなように思えて、純はパソコンモニターに向き直った。ちょうど新しい部品の説明書を読んでいたところだった。  警察が家に来た。多少の不安を純は得ている。  殺人事件は無差別だろうか。どこで起きたのか、武尊の通学路? 凶器はあるのか。なぜ警察は殺人事件だと口にしたのか。  ドラマなんかではよく警察は、一般市民の不安を煽らないために殺人事件だとは初期の段階で公表しない。近隣住民に対する言葉選びには相応しくないと思えた。  現実は所々違うというのだろうか。  心の至るところに靄がかかり、純は集中力が切れ始めた。まだ昼を過ぎたばかりで、コーヒーの後味が残っている。十八時までは四時間も残っているというのに、穏やかな気分にはなれなかった。  四時間を何とか乗り越えて定時で上がった後、電車の中でも妄想に病みつきになっていた。電車に乗る前に電話するべきか悩んだが、料理中の紗香の邪魔をするのは利口だと思えない。  不安を余計に募らせるのも彼女に悪い。
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