三月六日 昼

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 テレビを消して一分も経たない内に電話機が鳴った。紗香は変わらずに活字を目で追っているから、重い腰をあげて純が受話器を取った。壁に取り付けられたキャビネットのような四角い空間に固定電話が置かれているから、純は耳に受話器を当てながら壁に寄りかかった。 「ねえ、ちょっと」  耳にコバエが近付いた時のように不快な物音が耳に聞こえてきた。聞き慣れてしまったが、未だに八重(やえ)の声は受話器を一ミリ離さないと落ち着かない。  純の疲労色を見た紗香は、彼女自身もまた不機嫌な顔で小説を閉じた。 「どうかしましたか、お義母さん」 「最近こっちに帰って来ないみたいだけれど、どうしたの? 今年の夏休みは来るって言ってたじゃない。紗香はいる?」  横目でソファに座る紗香に眼をやった純は、彼女が首を振るとこう言った。 「今はお風呂に入ってますよ」 「そう。武尊君は?」 「今は自室で遊んでます」 「遊んでるって。勉強はしっかりやらせてるんでしょうね。苛められたらどうするの。誰が責任を取るの」  手に力が入り、汗で滑って落としてしまうのではないかと、純は一度呼吸を整えて冷静を心得た。 「もしイジメられたら、気付けなかった親が悪者になるのよ。わたしゃ、そうなったら紗香を返してもらうからね」 「お義母さん、武尊君なら元気に学校に通ってます。紗香も元気に、今日だって美味しい料理を作ってくれました」  相手をなだめる言葉を選んだつもりが、八重の怒りを刺激する結果になったらしく、捲し立てるように八重は言った。 「料理の手伝いもしてないで、あんたどこほっつき歩いてるんだよ。紗香は少し体付きの弱い子なんだから、あんたがフォローしないでどうすんの」  反抗する余力もなく、純はずっと低姿勢で相槌を打っていると、八重から一方的に電話は切られた。最後は脅し文句を吐き捨て、純の心臓にチクリと針を突き刺した。  活字ではなく、純にけなげな眼差しを紗香が送っていた。純は視線に気づくと苦笑して、彼女の隣に座った。 「お義母さんから」  誰かに聞かれても良いのに、純は自然に声を潜めていた。最近ではお義母さんという言葉を口にする時の作用になっている。 「武尊を連れて帰ってこいって。多分、俺は対象外だ」  下手な冗談だったが、紗香の顔は少し綻んだ。
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