三月六日 昼

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 近頃は十時近くになると武尊は約束を守ってしっかり話すのをやめ、ベッドに横になっている。携帯は勉強机の上に置いてあり、紗香が好きな時に回収するのだ。  八歳となると、大人の階段が見え始めた頃合い。武尊なりに大人社会のルールを守ろうとしているのだ。  見れば、ペットボトルは空になって手に握られていた。  ストーリーテラーはこの先の物語を知っているから、語り続けることを苦痛と感じていた。それでも私は何故か語らなければならないのだと理解していた。  物語の中の紗香と武尊が喋れば喋るほどに私は二人を気に病んでいた。二人が生きているならば、また話せる機会はあるからだ。  信じられるからだ。二人への愛を、二人からの愛を。私は臆病なストーリーテラーだ。 「折坂さん、近くにコンビニか何かあったか」 「歩いて六分くらいの所にありますけれど、どうかされたのですか」 「水が無くなってしまって。こういう時って万引きは許されるか分からないけれど、逮捕されたら逮捕されたでしょうがないよな。生き延びるためにやったんだ」 「危険ですよ、外は」  いくらなんでも大袈裟じゃないか。私は最初こそ、事の次第さに恐怖を感じて命の危機を脅かされているように思えていたが、こうして公衆トイレで数時間も座っていると、危険は過ぎ去ったように感じてならなかった。 「どちらにせよ、扉の鍵は開かないでしょう」  鍵に手をかけた。やっぱり手は鍵を開けようとせず、私は乾いた笑いが外に出た。  外が危険かは問題じゃない。外に出られないのだから。 「外側から誰かが開けてくれるってことがあればいいのにな。自分達じゃ開けられないのなら。この扉を壊してくれる人がいればいいんだけど」 「人に頼るべきじゃありません。この扉は自分の力で開けにゃならんのです」 「救助隊を待つんじゃなかったのか、折坂さん」  チャックを開ける音が聞こえて、次に物を探るような音が聞こえてから隙間から清水のペットボトルが見えた。私はそれを受け取って、すると彼は言った。 「その必要はなくなった。あなたが救助隊なんですわ」 「これはまた、どういう意味で?」 「あなたも語れば分かります、伊藤さん。観客をいつまで待たせるおつもりですか」
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