三月六日

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 昼だというのに薄暗く、悪臭の立ち込める時代遅れの公共トイレで私は奇妙な時間を過ごしていた。乱雑に置かれたトイレットペーパーは、先がジグザグに切られていて不恰好だった。  今朝まで私は特色のない平凡な人間だった。平日のいつも通りの時間に起きてスーツに着替え、車のキーが上着のポケットの中に入っているか確認してから朝食の席に一人座る。  トーストのパンに蜂蜜とバターをかけて紅茶を飲みながら、朝のニュースを見る。六本木に新しく建物が出来るらしい。近頃はすっかり先進国に馴染み始めた人工知能の、最先端を往く機械の発表場らしい。  今までは多目的ホールや会場を借りて発表していたが、ついに専ら人工知能だけが集まった施設が開かれるのだ。人工知能は日本の未来を明るくしていくのだろうか、歳を取った男性のニュースキャスターは澄ました顔つきでそう言っていた。  リビングの椅子から立ち上がって皿を台所に運んだ時、外から動物の鳴き声が聞こえた。いや、今となってはそれが野生動物や犬ではないのだと分かっているが、最初は動物が金切り声を鳴らしただけだとしか思わなかった。  近頃、夜中に猫が喧嘩を始めるのだ。聞こえてくる声は二つ。私はあまりにもはた迷惑だから対処法はないものかとネットで調べたが、これといって見当たらなかった。一つ分かったのは、耳障りな声を上げる夜中の猫は発情期らしいという情報だけ。  だから今度は昼に猫同士が喧嘩でもしたのだろうと思っていた。  音の方角は簡単に知れた。リビングの扉を南だとするならば北西。その位置には台所があり、換気用の出窓が備わっていたから私は窓を開けた。一体どんな猫が喧嘩をしているのか気になったからだ。  外の生暖かい空気が流れ込んできた。春の訪れを感じさせる香りが鼻を掠めた。  何も動かせなくなっていた。時間という概念が失われた時のように、私はただ目の前の物体を見ていた。ここは二階。出窓の真下には道路がある。たまに学生が自転車に乗って通る道だ。  その道で、黒ずくめで二足歩行らしき何か――恐らく人間――が女性に馬乗りになってナイフを振り下ろしていた。  動かなかった身体が、意識が、私という存在を取り戻したのは近くで物音が聞こえたからだ。私の部屋の中ではない。道路だ。その方向を見れば、学生服を着た二人組の男の子が近くに立てかけられていた自転車を倒してしまっていた。
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