三月六日

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我儘に、自己憐憫に浸る男だと侮辱されてもいいから私は祈っていた。震える手で。  キーを差し込み、ハンドルを握った私はアクセルを踏んだ。仲木戸駅に向かって羽田行の電車に乗る方は時間が早いが、私は電車が危険なような気がした。万が一あの男がいたら逃げ場がない。  細い道から大通りに出た時、蛇のように長い車の列と当たった。後ろからも何台か車がついてきている。ほとんどの人間が私と同じ思考回路に至ったのだろう。  すぐ真横に駐車場があり、私は車を停めた。後ろに並んでいた車が列に入り込んだ。  逃げることだけを一心に考えていた私は携帯を取り出して情報を求めた。日本で何が起きているのか理解できなかったからだ。ニュースや、リアルタイムで更新される情報掲示板にこの状態を知れる手がかりはないか。  どこにも情報は見当たらなかった。つい三十分前に更新されて以降、途切れている。  次に紗香の携帯電話に発信した。十度目のコール音の後、機械的な女性の定型文が内部スピーカーから聞こえてきた。  居ても立ってもいられなくなった私は車から飛び出し、財布と護身用で家を出る時に持ってきていた包丁、鞄を持って仲木戸駅を目指した。道を真っ直ぐに歩き、横断歩道を渡って東神奈川駅を歩き過ぎたところが仲木戸駅だ。  歩いている最中、私は強い腹痛を宿した。疲れと同時に薄れゆく恐怖の中、張り詰めた精神が私の胃腸に攻撃していたのだ。元々胃腸が弱かった私には打ってつけの機会らしく、背中を軽く丸めて歩き続けた。  ところで私が今時代遅れの公共トイレにいるのは腹痛を癒すためではない。私は無我夢中となって走っていたから記憶が曖昧だが、口から血を流して白目をむいた女が鉄パイプを持って私を追い掛け回していた事は唯一覚えている。  後ろも見ずに走っていた私は縋るようにトイレの個室に入り込んだのだ。鍵を閉め、便座に座って息を整える。  覚えていない。追ってきた狂人の女がどうなったのか、どこから彼女に追い掛け回されることになったのか。そして、いつ護身用の包丁を地面に落としたのか。何も分からないまま私はただ息を整えていた。  大分呼吸が落ち着いてきた頃に、隣から渋い男性の声が聞こえてきた。私は驚いて手に持っていた鞄を地面に落とした。 「大丈夫ですかね」
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