三月六日

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 年季の入った声で、私よりも大きく年上であることが知れる。少し間を置いて私が大丈夫だと口にすると、男は言った。 「追いかけられていたんでしょう、彼らに」 「その通りだよ。なんなんだ、あいつらは」  男は随分と落ち着いた声音だった。俯瞰するように。  ポケットから携帯を取り出してモニターを見たら、圏外表記が書かれていた。この時代に、都会から少し外れたとはいえ人気の多い町の中で圏外だ。いくら考えても狂っている、この現実は。 「何があったんだろう。ニュースを見ても何も書かれていなかったのに。逃げてって、何から逃げればいいんだよ僕たちは」  素性も分からず一切関わりのなかった相手ながら、自分の近くに人間がいるというのはこうも安心感を高めるのだと実感した。男は冷静だった。私は冷静な人間を知らない内に求めていたのだろうか、私を縛り付けて身動きを封じていた鎖の力が弱まっていくのを感じる。 「自分の名前は、折坂(おりさか) 弥平(やへい)と言うものですわ。君の名前も聞いておきたいですね」 「僕は伊藤(いとう)純(じゅん)だ。折坂さん、あなたも仲木戸駅を目指して歩いていたのか」 「や、自分は違いますよ。車がエンストを起こして、身を隠すにはここしかなかったもんで」  意識してみれば、折坂を除いて周囲に人はおろか動物の気配すらなかった。木の葉が風に揺れる音だけ。風に揺られ、公園のブランコが音を立てるだけ。足音も車の音も聞こえなかった。  ここが何処なのか分からなかった。普段来ない場所だ。もし今日、女に追いかけられもしなかったら一生来なかったであろうトイレだ。 「折坂さんはこれからどうするんだ。僕は落ち着いたから、そろそろ出ようと思うんだけど」 「ここで待つしかないですね。助けを」  考えてもなかった答えに、私は面食らった。 「助けを待つって、誰が助けに来るんだよ」 「そりゃあ決まってます。自衛隊ですよ」 「駆け付けて来ない保証はないけど、いつ来るか分からないんだぜ。その間ずっとここにいるつもりかよ。気が触れちまうぞ」 「心配には至らず。飲料水と非常食はしっかり持ってきてますからな。少なくとも一週間はここに篭ることが出来る」 「一週間しても来なかったら?」 「そしたら現世との別れです。未練なんか忘れちまいました」
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