三月六日

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 冗談を仄めかす言い方ではない。折坂は万が一ここに自衛隊が来なかったら衰弱して死ぬつもりなのだ。賭けじゃないか。彼は死という差し迫った状況を遠巻きに表現したが、私には目と鼻の先にあるような感じがしてならなかった。  助けが来る、来ないの問題ではない。奴らが来る、来ないの問題でもあるのだ。 「一体なんなんだろうな。あいつらは。まるでゾンビみたいだった」 「ゾンビほど汚れてもいませんけれどね。自分も分からんです」  散らばった頭の整理が少しずつ終わるにつれて、私は喉の渇きを覚えた。鞄の中に入っている温いミネラルウォーターに口をつけて喉を潤した。唇も乾燥していたから、舌で舐めた。 「やっぱりここに居座るのは良くないんじゃないか。もし奴らが来たらやられちまうよ」  出窓から道路を覗いた時の光景を思い出して身体に悪寒が吹いた。胃に錘が乗ってズンと重くなった。自分の言葉は他人事ではないのだ。話している間にも彼らが攻めてきて、ドアを打ち破って私を殺すかもしれないのだ。  小さな金属音が聞こえてきた。右の足元からだ。ふと視線を落とすと、隣の個室を隔てる壁の隙間から金属バットの先端が見えた。 「これで反撃するつもりかよ」  抵抗して私は語気を強めた。 「公園に落ちていました。奴らに対抗するにはこちらも武器を使う他ありませんよ」  折坂は冗談を言わなかった。今回だけは冗談だと言うべきだと思った。  彼はシミュレーションしているのだ。奴らの頭をバットで弾き飛ばす瞬間を。その後の事まで考えているのだろうか。彼らは血を流すだろう、人間だからだ。折坂の服に返り血がついて不愉快な思いをするだろう。  最後に、狂ってるとはいえ人間を殺した罪悪が背中にのしかかってくる事。私には不可能だった。護身用のナイフはその場凌ぎの抑止力だ。彼らも人間なら、武器を見せつければ退くだろうから。現実には、私のシミュレーションは失敗に終わってしまったが。 「やっぱりここから出るべきだ。折坂さん、駅まで一緒に行こう。人間を殺す必要なんてないはずだ」 「伊藤さんの言うことは最もです。でも私はこの個室から外に出る勇気がない。貴方もそうじゃないんですか」 「そんなはずはない」  親に反抗する子供のように私は躍起になっていた。個室の扉を開けて、折坂の閉じこもっている扉を叩いて外に連れ出そうと考え、便座から立ち上がった。
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