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三月六日 昼
人間が作った基準、時間という概念じみた道理が失われたから個室に閉じ込められて何時間経ったのかは分からない。窓から漏れる日差しだけが唯一細胞の動きを感じさせる。
このまま夜になったら時間を本格的に視認できなくなるだろう。一瞬それは恐怖だと感じられるかと思ったが、私は気に留めなかった。
不思議な事を私は考えた。折坂は本当に救助を待っているのだろうか。彼はこのまま、死を望んでいるのではないか。
人間は歳を取ると共に死に対して鈍感になっていくのだと知っている。差し迫った死に、彼は冷静でいられるのは歳を取っているからだろうか。
それとも見えないだけで、手は震えているのだろうか。彼はどんな顔をしているのだろう。知ることはできないが。
「伊藤さん、私は思うんです」
私の考え事に呼応するように、彼の声が空間に響いた。蛍光灯が二秒ほど暗くなり、また元の明るさに戻った。
「何が起きたのかは分からんです。ただ日本では、大災害じみた何かが起きている。神奈川だけじゃない。東京でも大阪でも、沖縄でも。はたまたアメリカでも起きてるのかもわからんです」
「ええ」
無意味のように思える彼の言い分には感情が含んでいるように思えた。
「思ってしまうんですわ。私達はその大災害を、心から悲しんではいない。むしろ、どこか、喜んでいるような気さえするって」
「そんなバカな」
「そうじゃなければ、じゃあどうして薄汚れたトイレの個室から出られないんです」
灰色に濁った炎。鎖に繋がれた脳ミソ。私は彼に言い訳ができなかった。最もたる否定的な文が見つからなかったのだ。
人が死んでしまう程の災害が起きて喜ぶのは褒められた話じゃない。空港の飛行機の中で「私はとても喜んでいる!」と公言したら石が飛んでくるだろう。
罵倒され、飛行機から落とされてしまう。私はこの言葉をそのまま折坂にぶつけられたはずなのに、口を閉ざしていた。
「私達は、もう仲間も同然だと思ってます伊藤さん。よかったら、あなたの物語を聞かせてもらえませんか」
私は今から、何か劇でも始まるのかと錯覚した。個室の扉を開いたら目の前は劇場であり(私はもちろん観客だ)顔立ちの整った男性や、女性が拍手に包まれる中舞台袖から出てくるのか。
だから「僕が?」と聞き返すのはさも真っ当であり、折坂も静かに「はい」と言うだけだった。
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