三月六日 昼

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 静かな時間は嫌いなのだろうか。全く関係のないことを考えていた。 「僕の物語って、なんだ?」 「今、伊藤さんが誰かに話したいことです」 「そんな話、あるわけ」  競技場のトラックを走っている選手が突然立ち止まった時のように、私は口を止めた。  近しい人、家族、信頼できる上司。私はそのどれもに恵まれていながら、幸せな時間を過ぎて程なく、第三者を求めていたことをたった今知った。 「今の私は身内でもなんでもない。だからこそ出来る話というのも、あるんじゃないですか。私達は一期一会の関係だ」  逆らえなかった。  自分が今、退屈なストーリーテラーになることを望んでいたから。  俯瞰的に私は自分を見た。殺されそうになって逃げ込んだ個室で、扉が開かなくなって、顔も知らないおじさんに自分の人生をぶつけようとしているのだ。  これほど愉快な演出、人生で二度目はあるだろうか。気を緩めたら笑いで吹き出してしまいそうだ。 「僕はな、折坂さん。確かに喜んでいるのかもしれない。災害を」  ――武尊が、舞い散る桜に包まれながら天から地上に降りてきてから七年経った頃だ。  簡単な階段を上る時、足が重くなり始めたことで純は若さと仲直りしたい時期だった。本気でヨガや、ジムに通おうかと考えていた。  来る日も来る日も会社と家の往復。彩りのない日々であったが、純は不満ではなかった。家族を想う父親の面を被るだけで生を実感するからだ。愛する紗香と、武尊の二人に不幸せな瞬間は一秒でも与えるものかと心に誓っていた。  彼の親は、彼自身が出来損ないだと感じてならなかった。  彼の母親である京子(けいこ)の下には純と、香織(かおり)二人の子供がいた。香織は純の妹だ。  強硬な束縛。朝から夕方までパートで働いている京子は買い物袋を抱えて帰ってくると、まだ中学生だった二人に同僚の陰口や苦労話を吹き込んだ。  みかねて純がリビングから立ち去ろうとすると、途端に京子は機嫌を悪くして毒言を口にする。あなたは聞いてくれないんだね。  純はいつも心の中で言い返していたものだ。あんたの話は聞き飽きて、つまんないんだ。  それを口にしよう物なら不機嫌に拍車がかかり、非難先が純に変わるだろう。
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