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菜月の家庭教師を始めたのは、裕紀が大学一年生の夏からだった。ちょうど一年くらいが経った頃合いである。藤堂先生のおかげで成績も少しずつ上向いてきました、と菜月の母親が礼を言いながら手渡してきたのは、通常の月謝とは別の心付けだった。最後まで固辞したが、菜月が間に入ってきて「はい、もう『いいって合戦』はおしまい。……いつもありがと、先生」と、裕紀の胸に封筒をぐっと押しつけてきたのだった。嫌だとか面倒臭いとか以外の言葉を口にしない菜月が、珍しく感謝の言葉を唇にのせたことを、裕紀は今でもよく覚えている。
「……あたしね。本当はもう家に戻らないつもりだったんだ」
その声の色は、冗談を言っているようには思えなかった。なぜ、と裕紀が訊くと、菜月はころんと寝がえりを打って、裕紀の方に身体を向ける。
「進路のことで、喧嘩した。あたしの親って、どっちも東京のおんなじ大学出てるからさ。そこに行けって言うの。あたしは違う勉強がしたいし、親に似てあたしも頑固でしょ。ぜんぜん喧嘩が終わらないから、とりあえず言う通りにするって言って矛を収めてさ。部屋に戻ってすぐに家出の準備をしたの。着替えと、ありったけの貯金を財布に突っ込んでね。まあ、女の子なら、うまいことやれば寝床とごはんは確保できるでしょ……って思ってたんだけど」
「いざ家を出てみたら、おっかなくなったってか?」
「ばかでしょ。まあ、あたしがばかだってこと、裕紀くんはよく知ってると思うけどね」
自嘲的な笑みを浮かべる菜月に、裕紀はかけてやる言葉を見つけられなかった。
「そしたら偶然、裕紀くんに会った。これはもう運命だなと思って、話しかけて、今に至るよね」
「勝手に人の運命を決めるな」
「でも、あたしのことを助けてくれたのは、裕紀くんだよ」
「え?」
顔の少しを枕にうずめた菜月は、にっこり笑いかけてきた。
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