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「あんたももう少し愛想が良くなれば、いずれは申し分のない番頭(ばんかしら)になれるんだろうけどねえ」  もう何回言われたか、覚えていないくらいにお決まりの小言だった。私は「申し訳ありません」と小さく頭を下げる。  この女将も、今年で七十になる。二十でこの土地に嫁いできたはいいものの、先代の主人には彼女を置いて失踪し、以来女手ひとつで夫の残した借金を清算し、宿を盛り立ててきたという。まさに女傑と呼ぶにふさわしい人物だった。昭和四十五年の台風の際には山津波で母屋と従業員の半数を失ったが、それもわずか数年で立て直したとのことだ。  行くあてもなくこの街に流れ着いた私も、この女将に拾われたようなものだ。そう考えると、ある意味恩人とでも言うべきか。  もしも死ぬのがこの人だった場合、私は痛手を感じるのだろうか。そう考えた。この宿は彼女の人脈で持っているようなものだ。もしいなくなれば、今まで通り営業していけるかどうか疑問である。そうなれば、私も失業だ。  だがそれだけなら、どうとでもなる。大したことではないと思えた。ただそれ以前に、この女将が私の近しい人間と言えるのかどうか。そこは微妙なところだ。 「ああ、そう言えば」女将が思い出したように言った。「今度仲居で入った君香(きみか)ちゃん、どうだい、ちゃんとやってるかい?」  二週間ほど前に、女将が直々に面接して採用した女性のことだった。確か姓は光原(みつはら)とかいったか。何度か顔は見たが、まだ言葉を交わしたことはなかった。 「さあ、私は帳場なので、何とも」  素直にそう言うと、女将はそうかいとあっさり頷いた。 「まあ、できればよくしてあげなよ。あの子も、あたしらと同郷なんだ。こっちに身寄りのない流れ者なんも同じ。さぞ、心細いことだろうよ」  そう言って、女将はまた長煙管をくわえた。私は失礼しますと頭を下げ、乱雑な部屋をあとにした。 ※  私が生まれたのは、山陰の古い宿場町のひとつだった。そこにはある言い伝えがあった。というより、語り継がれてきた怪談と言ったほうがいいか。それは、あるとき突然部屋に生えてくる青竹の話だった。
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