まよいが旅館

壱

「おやおや、大丈夫かい、坊や」
　雨音に紛れることもなくはっきりと届いたのは女の声。
　艶のある抑揚はあまり聞いたことのない部類のもので、明空は顔を上げ、雨を透かして相手を見る。
　着物姿に番傘を差した女が唇に笑みを浮かべて立っていた。
　大胆な白黒の縞模様の着物に、飛んでいる鶴が一羽あしらわれた黒の帯。紫の帯締めと半衿が色を添える。
　女は番傘をくるりと回して膝を折り、明空と目を合わせた。
「こんな雨の中、一人かい」
　言いながら、女はすっ、と傘の角度を変え、明空を中に入れる。
　濡れそぼった髪から流れてくる水を嫌うように瞬きをしながら、明空は口を開いた。
「……雨だから、母ちゃんが帰ってくる。家にいなきゃ」
　ぼそぼそと答える子供の声に耳を傾けた女は、憐れむように一瞬眉を寄せ、次いで唇に笑みを刷く。
「そう。……おっ母さんが帰ってくるなら、綺麗にしないと。おいで」
　女の声は不思議で、その言葉を理解するより先に、頭の中に白く靄が広がった。
　まるで操られるように差し出された手を取ると、女は満足げに微笑んで立ち上がる。
　大きな番傘をくるりと回して、女が母親のような目で子供を見下ろす。