千之家様さすけね

7/7
前へ
/7ページ
次へ
うちの村には噂がある。 村で知らないひとに会ったら、千之家様さすけねと言いなさい。 大人たちはしつこく私に言った。 パパもママもしつこく言った。 あんべよくねえことになるからと。 私はなぜか窓ガラスを開け放って身を乗り出していた。 冷たい風が肌を刺す。 うちの前の道路に知らない女の子が立っていた。 胸に黒い何かを抱えている。 どこの子だろう。 村の外から遊びに来た親戚の子かな。 うちに用があるのかな。 声をかけようかと思って言葉がつまった。 知らないひとには千之家様さすけね、と言わないとあんべよくねえことになる。 どうしようか迷っていると、玄関からママの声が聞こえた。 「千之家様さすけね!」 聞いたことがない刺々しい声だった。野良犬を追い払うような声だった。 バタンとドアが閉められた。 千之家様さすけね、とまたママが言った。魚を丸呑みしたみたいな声だった。 それを聞いた女の子はくるりと背を向けて走り出した。 どこに行くんだろう。 女の子は大事そうに何かを抱えていた。 小さくなっていく女の子の背中に私は言った。 千之家様さすけね。 女の子の姿が道の向こうに消えた。 私は窓ガラスを閉めた。ママに何か訊こうと思っていたはずなのに、何を訊きたいのか忘れてしまった。 なんで窓ガラスを開けたんだろう? 換気でもしたかったのかな。 うちの村には噂がある。 村で知らないひとに会ったら千之家様さすけね、と言え。 じゃないとあんべよくねえことになる。 何が起こるかは誰も知らない。 ただの噂だ。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加