壱「名無能」

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壱「名無能」

(俺、才能無い)  プラスチック製のカップ麺箱に手作業でブロック肉を投入している時、自分の価値が発覚する。  俺が勤めているのは、自宅から自転車で約10分の食品加工工場。  埼玉県鶴ヶ島市に在るうちの会社を知る人は少ないが、大手コンビニのホットスナックコーナーの唐揚げやフランクフルト、全国チェーンのファミレスのカレーや味噌汁は、うちの会社が下請けで商品を提供している。此処は数有る生産拠点の一つだ。  帽子、マスク、眼鏡、手袋、長靴、白尽くめの作業着を身に付け、徹底的に衛生に配慮させられる作業員。パートのおばさんとすぐ来なくなる派遣社員達と共に普段は単純作業に明け暮れている。俺は幸運なことに正社員だが、下っ端なのでパートのおばさん達とやる作業がまだ変わらない。  俺は現役で法政大学文学部日本文学科に入学・卒業。就職活動でこの会社の新卒採用に応募して内定を獲得。花形のテレビ局や新聞社、出版社などにもエントリーシートを送ったが梨の礫。結局、内定が取れた会社の中で一番給料が多かった今の会社に入社した。  作家になりたかった。文学部に入ったのもそれが理由だ。学生でプロになる人を何人も見てきた。自分もなれると信じていた。  汚い会社の食堂で休憩を取っている時、夏目漱石の『三四郎(さんしろう)』が蘇る。大学の授業で初めて作品を知った時、自分の偏差値で無理なく入れた法政大学ではなく、猛勉強して東京大学に入っておけば良かったと後悔した、あの感覚。夏目漱石をよく知っていたら、赤門出になろうと必死になっていた。『三四郎』は東大小説。他の大学に入ってから読んでも遅いのだ。  あの怠惰を過ごした青春が戻ることはない。  俺は工場で働く『名無能(ななしのう)』。
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