弐「布団」

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弐「布団」

 茨城県日立市の東横インに宿泊している。  正社員と自覚出来るのはこういう時。日本各地の会社の工場に出張し、鶴ヶ島の工場との違いを学ぶ。  大学を卒業したら2度と勉強しないと思っていたが、新人研修で半年、その後もさまざまな工場に出向き、市場の動向や生産の効率化を学んだ。  普段は現場の作業に慣れている(だってそれしか一生することはないのだから)派遣社員やパートからは『使えない奴』扱いされているが、月給でも、賞与なども含めれば年収でも俺の方が上だ。非採算部門に勤めている連中がやっているのは『作業』でしかない。俺は会社に収益を与える『仕事』をする正社員だ。  入浴を済ませると、ベッドを椅子にして右手のスマートフォンでエブリスタと云う小説投稿サイトを開く。俺の趣味は『黒羽翔』と云うペンネームで短編を書くことだ。いや、短編と云うよりショートショート。芥川賞の選考作品にされるような短編は、どんなに少なくとも原稿用紙数十枚分は要する。そういう話をこのサイトに載せることは少ない。  俺には夢がある。池井戸潤先生のように、会社勤めをしながら小説執筆を続けて短編や長編を出版社が企画している文学賞に応募、新人賞を受賞してプロ作家としてデビューする。作品は芥川賞や直木賞などの国内の有名な賞を尽く受賞、映画やテレビで映像化し、毎年ノーベル文学賞受賞を噂される村上春樹先生のような日本を代表する作家になる。  目が疲れてスマホを充電コードに繋げ、就寝するためにベッドに入ると、この『夢』は宝くじで一等を当てるより確率が低いと悟る。  田山花袋の『蒲団』を想起する。  東横インの布団はよく清掃されていて、俺の前の客の残り香など一切無い、寝心地の良い清廉な無臭である。  これで一体、何を書けって? 『東横インのスタッフは非常に優秀で、心地良い宿泊体験を安価で提供しております』
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