喫煙者の受難、止みそうもなし。

2/9
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ
昨年、2年振りに韓国へ行った。向こうに住む知己に再会するのが、主たる目的だったのだが、個人的に驚いてしまったのが、国を上げて「禁煙化」が進んでしまっている事だった。個人的に傑作?だったのは、ソウルに住む韓国人の親友は「喫煙者」から足を洗い、紫煙に縁が無かった私が「喫煙者」となっていた事だった。韓国ドラマでも「喫煙シーン」は御法度だそうで、映画での喫煙シーンは「許容範囲」だそうな。うーむ、厳しい。 長年、私は煙草を呑む事を「潔し」とはしなかった。学生時代に喫煙しているのを、教師に見つかってしまい「停学処分」を貰うクラスメートを脇に見て、手を伸ばす事はしなかった。色々と理由はあるだろうが、家庭の中には煙草が普通にあった。本当に「御縁」が無かったのかもしれない。 しかし生きていれば、色々あるのが「人の常」でもある。段々と齢を重ねるうちに、「ストレスの波」とやらに抗う事が、非常に厄介になっていた。誰しもがストレスを溜める。溜まったストレスは発散するしか方法はないが、イイ歳こいた私は「ストレスの発散方法」を知らぬまま、ずっと日々やり過ごしていたのであった。 これで良い筈がない。精神衛生上、好ましくもない。何とかしなくてはならない。その自覚はあるがどうして良いか分からない。悶々とする毎日だった。 これを突破する方法に出会えたのは、ある「出会い」だった。私淑する物書きの先生へ、「直に単刀直入に相談する好機」に恵まれたのだ。その先生は私の悩みを一頻り聞いた後、黙って黄色い小箱を私に差し出した。黙って差し出された小箱を、私は「処方箋」だと思い、黙って中身を取り出してみた。その小箱の中身は高級なキューバ産のシガリロだった。生まれてから煙草を知らない男が、いきなりシガリロを吹かしたのだから、堪ったものではない。しかし葉巻やパイプの類は、肺にまで吸い込むのではなく、吹かすのだとしっかり教わった。以来、毎日ではないが葉巻やパイプは、時折こっそり愉しむようになった。 喫煙者になってみて「喫煙者の肩身の狭さ」は、身に染みて感じる。しかし同じ喫煙者として、喫煙者のマナーには閉口する事が多い。歩き煙草然り、ポイ捨て然りである。ホームズ先生やワトソン博士なら、きっと嘆いているだろう。 近い将来、喫煙シーンにモザイクが入るのだろうか。それだけは御勘弁、折角の場面が台無しになるから。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!