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《1》女帝。-The empress-
タクシーから降りた途端、刺す様な陽射しが白い肌を焼く。
東京地検特捜部の検事にして、『女帝』の二つ名を持つ深水満智子は、肩先まで覆う真っ白な鐔広帽を、僅かに掲げて、周囲を眺めた。
「──田舎ね。」
改めて言うまでも無く…この辺りは、見渡す限りの田園地帯である。
視線を転ずれば、背後には、杉林を貫く長い一本道が伸びていた。それは徐々に反り上がり、苔むした石の階へと続いている。
満智子は、うんざりと呟いた。
「…で。石段を私に昇れ、と?堪忍してよ。何段あるのよ、一体??」
誰にとも無くぶつける不満。
重苦しい溜め息が、蝉時雨に掻き消される。
細い手首を飾るピアジェのドレスウォッチ《dancer》は、約束した時刻の三十分前を示していた。
高く聳える石段の先には、壮麗な山門の屋根が見える。
──行かなければ。
如何なる場合であっても、遅刻は、彼女自身の信条に悖る。
「昇るわよ…昇ってやろうじゃないの!」
満智子は、鼻息を荒げて独りごちた。
白いオープントゥのパンプスが、毅然と踵を返す。こうして…敏腕で鳴る東京地検の女性検事は、潔く石段へ向かった。
その、約二十分後──。
門前には、ゼイゼイと息を上げて踞る、深水満智子の姿があった。
両手を膝の上に付き、汗だくで肩を上下させている。その美貌には、百八もの石段を自力で昇り切ったという征服感が滲んでいた。
「…ど、どうよ。昇ってやったわよ!?」
そう言って、不敵に笑って見せる彼女だったが…苛酷な運動に耐えた細い脚は、正直な悲鳴を上げていた。膝頭がカクカクと震えている。
額の汗を拭い、半ばヘロヘロになりながら、満智子は改めて、聳え立つ山門を見上げた。
濃い影を落とす瓦屋根の庇。
幾重にも重ねた裳階の下には、如何なる名工の手から成るのか、見事な唐模様が施されている。
黒く燻んだ二本の門柱は、宛ら、当主を守る仁王像の様だ。重たげな屋根を支えて尚、微動だにせず佇んでいる。
「凄い…これが甲本家なのね。」
満智子は僅かに息を飲む──が。
直ぐに、ピンと背筋を伸ばして荘厳な山門を潜った。
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