[一段目]Adagio(アダージョ) 緩やかに。

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「どうぞ。客間はあちらです。」 「あ、有難う…」  不意に声を掛けられて、満智子は咄嗟に平静を装った。何喰わぬ顔で微笑して見せたが…何故だろう?ドキドキと脈打つ鼓動が収まらない。  …そうして。二人は暫し無言のまま、長い回廊を巡った。 漸く辿り着いた客間は、驚く程広くて涼しい。半分降ろした御簾(みす)の向こうに、美しい中庭の植栽が見えた。 サラサラと流れる鑓水(やりみず)。 几帳で仕切られた、二十畳の和室。 雅な和の設えに、思わず溜め息が洩れる。  茫然と立ち尽くす満智子に座布団を勧めると、少年は、何故か座卓を挟んだ向かい側に座った。  満智子は、パチクリと目を瞬かせる。 そこは本来、この屋敷の当主が座すべき場所だ。錦の座台と漆塗りの脇息が調えてあり、余所者の満智子でさえ、其処が上座であると判る。 「ちょっと、君…まずいわよ、それは。」  思わず、そんな言葉が口を突いて出た。 如何に常識に疎い少年僧とは云え、この非礼は、流石に正さずに居られない。 「其処は、当主さまの御席でしょう?勝手に座ったら駄目じゃない。」 「あぁ…大丈夫です、御構い無く。」 「当主さまに叱られるわよ!?」 「いえ、それは無いと思いますよ。だって、この家の当主はボクですから。」 「────え!?」  たっぷりと間を措いてから、満智子はフルフルと『少年』を指差して訊ねた。 「当主──?あなたが!?」 「はい。」 少年…否、屋敷の女主人である《金の神子》は、戦慄(わなな)く満智子を見て、はんなり笑いながら答えた。 「ご挨拶が遅れて申し訳ありません。ボクが当主の甲本薙です。以後、宜しくお願い致します。」  慇懃に頭を下げる薙に、満智子は、混乱も露わに呻く。 「甲本薙──!? あなたが《金剛首座》なの!? 六星一座の『総元締め』?」  薙は機嫌好くニコニコと笑っている。 その笑顔が、そのまま彼女の答えになっていた。 「ごめんなさい!そうとも知らず、私ったら首座さまに大変な失礼を…。まさか、こんなにお若い方が当主だなんて!! 後村くんも人が悪いわ。それならそうと、初めに言ってくれたら良かったのに!」 「気にしないで下さい。年齢不詳、性別不明で誤解されるのは、いつもの事です。慣れっこですから。」  狼狽する満智子に、あっけらかんと答える薙。そんな然り気無い気遣いすら、今の彼女には身の縮む思いだ。
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