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「……ずっと、黙っていたことがある」
なんだか頭が痛くて、抉られるようなその痛みから逃れたくて夜永は重い口を開いた。何か話していないと気が狂ってしまいそうだった。
「昔、人魚を見たことがあるんだ」
ミカドの目が見開かれる。
大きくなった紅茶色に、少しだけ癒された。
「夜の路地裏で、それは転がってた。見たのは俺だけだ。誰も来ないような場所だったから。全身鱗だらけで酷いありさまだった。特に脚は肌が見えないくらい。怖くて、気持ち悪くて、俺は目が離せなかった。人魚は逃げ出すこともしないで、ぐったりとしていた。たぶん弱っていたんだと思う。それで──」
「暫くして、息を引き取った」
夜永は深く息を吐き出した。随分長い間息を止めていたような心地だ。噴き出した汗を拭うこともせず、ミカドをジッと見返す。
「あれはお前なのか」
ミカドは何も言わない。
「……お前も、ああなるのか」
ミカドは自分が最初の罹患者だと言った。しかし、もしミカドの前に罹患者が居たとしたら? 死ぬかわからないこの病が、いずれ命を奪うものだとしたら? ミカドもあの人魚のように死んでしまうのだろうか。あんな醜く、悲しい最期を迎えることになるのだろうか。
それは嫌だ、と夜永は思った。ミカドと出会えて、折角呼吸ができるようになったのに。ミカドが居なくなってしまえば、またあの日々に逆戻りだ。呼吸のできない、辛く退屈な日々。
「……大丈夫さ。僕に死ぬ気は無いよ」
ミカドは笑う。宥めるように。慰めるように。
「まだ死ぬと決まった訳じゃないんだ。僕より先に君が泣きそうな顔をしないでくれよ。それに、わかってるだろ? 僕には死ねない理由がある」
ミカドは服のポケットから使い古した地図を取り出した。二人で海に関する情報を書き込んだ、小さな地図。その端の地域を指差す。
「明日、ここに行ってみようと思うんだ。今日の聞き込みで聞いた、海があると思われる場所。今までのものよりずっと信憑性が高い情報だ。今度こそ本当かもしれない」
二人の視線がかち合う。真剣な、縋るような眼差しに夜永は射すくめられた。
「頼むよ。最後まで付き合ってくれ」
夜永は胸に燻る不安を呑みこんで、小さく頷くしかなかった。
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