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そのころ従三位は、このような事態があることを予感していたのかもしれぬ。しかし請われて屋敷に住まうようになり、そのうち時姫を知るようになって、こんどは源二のほうが時姫を守ることが自分の使命であると思い始めていた。
優しい、とか正直だとかとは少し違う、時姫独特の透明感があった。それは時として人に奇異の念を思わせるものがあったが、源二の心に突き刺さるものがあった。
「こちらでございます」
源二が案内したのは、屋敷の裏手にある、南天の茂みに埋まるように隠れている井戸であった。
ただし、空井戸である。川の流れが変わったのか、ある日、唐突に水が涸れ、現在では蓋をしたまま忘れ果てられた状態になっている。
源二は井戸の蓋を持ちあげた。深々とした井戸に、縄梯子が垂らされている。
「これを降りていただきます。この日のあるのを予想し、抜け道を作っておきました」
源二の言葉に、時姫はこわごわと井戸を覗き込んだ。月のひかりが中天に懸かって、井戸の底まで届いている。
「源二、そちも一緒に降りてくれるのであろう?」
心細そうな時姫の声に、源二の胸はちくりと痛んだ。それでも、ゆっくりと首を振った。
「いいえ。それがしは、姫さまをお落とし申し上げるため、屋敷に留まるつもりです。一騒ぎいたして、敵の目を引きつけましょうぞ!」
源二の言葉に、はっと時姫は唾を飲み込んだが、それでも強くうなずいた。
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