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一限目の講義を終えた別府あんずがサークル棟の二〇一号室に行くと、加賀音葉がひとりパイプ椅子に座り、誰かが置き去っている先週発売の週刊コミック誌を読んでいた。先週見た時は根元が黒くなっていたアッシュグレーの髪が短く切り揃えられ、明るい茶に染め直されている。南米の毒虫のようだったネイルの色も大人しく、新しい彼氏の趣味なのかと邪推してしまうが、服は従来通りの原色を基調とする麻薬中毒者が見る幻覚のようなファッションなので、恐らくは就職活動の下準備であろう。
「お、第一村人」
「誰が村人ですか、誰が」
軽口に応じながら、音葉の対面に腰掛け、道すがら買ってきた水のペットボトルを傍の長机に置いた。元々四畳半のスペースしか宛てがわれていない上に、ドアがある面を除いた三面に木製の箱椅子と長机を置いているせいでひどく狭いサークル室は、ふたりが向かい合っただけで膝がぶつかりそうな距離になる。とは言え隣に座るほどには、この二つ上の先輩と親しいわけでもない。結果的に、膝の肉薄をする位置関係に着地する。
「一限から授業?」
「はい」
「こんな時間によく勉強できるね」
「必修なんでやむなくですよ。加賀さんこそ、なんでまたこんな時間に来てるんですか?」
「二限の人類学とってるんだけど、出てきてみたら教授の宗教上の理由で休講ってメール来てたんだよ」
「どんな理由ですか」
「ユダヤ教徒だから独自の祝祭日あるんだってさ」
「……大変ですね」
「休むなら先週のうちに連絡してほしいよねー。あたしは三、四限もとってるからいいけどー」
やれやれ、と言いながら音葉は膝の上に置いていたトートバッグから箱入りの菓子を取り出すと、おもむろにばりばりと包装紙を破りだした。
「食べるがよいよ」
蓋を開けた箱を突き出される。中には白い和紙で個包装された正方形が整列している。
「なんすかこれ」
「土日、従兄の結婚式で実家帰ってたんだよ」
「ああ、だから髪と爪やってたんですか?」
「そ。バイト代入ったら戻すけど。んで、これがお土産」
「はぁ、どうも。加賀さんのご実家……えっと、石川でしたっけ」
「ぶっぶー。よく勘違いされるんだけど栃木」
言われながら目を落とすと、包装紙には甚五郎という名が印刷されている。左甚五郎のことなら確かに栃木は日光だ。
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