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約束の日になって僕は彼の指定した場所に向かった。そこは閑静な住宅街の中にある築年数の古い日本家屋だった。木製の引き戸に取り付けられたインターホンを鳴らすと男性の声が聞こえた。「鍵は開いています。どうぞお入りください」受け取ったメールの文面に似た、簡潔な返答だった。木戸を開けると様々な植物が植えてあって玄関は見えなかった。その代わり、大きくて平たい飛び石が僕の行き先を示していた。飛び石が置かれている通りに進むとくぐってきた門よりも貫禄のある玄関が僕を出迎えた。すると、僕の気配が分かったのか玄関の中から「どうぞ」と声がした。玄関は引き戸で、取手の金具はひんやりとしていた。
中にいたのは口ひげをはやしている40代くらいの男性だった。白髪交じりの髪はしばらく整えていないのかぼさぼさで、芸術以外には無頓着な『いかにも芸術家』といった風貌だった。しかし、その男性はお兄さんではなかった。老け込んで別人になったとか風貌がガラッと変わって別人になったとかいう話ではなかった。比喩表現ではなくその男性はお兄さんと全くの別人だった。僕は挨拶をして、男性に名刺を渡した。その男性の手には落としきれてない絵具がちらほらとあった。そして油絵の具を溶かすときに使われる揮発性油特有のにおいがした。直前まで作業をしていたのかもしれない。男性は僕に親しげに話しかけてきた。
「さぁ、どうぞ。上がって、上がって」
「失礼します」
「そんなにかしこまらなくてもいいよ。知らない仲じゃないんだし」
「では、いきなりで申し訳ないのですが、アトリエを拝見させていただいてもよろしいですか? 」
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