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困った様子も悲しい様子も、怒りの様子も見せずに笑顔を作って告げるマルクからは、彼の表情は見えなかった。そしてそんなマルクの表情もまた、カンディンスキーには見えなかった。ありがとう、といつもなら想像もできないような弱い声音で答えた彼は、マルクを置いて一人で歩いて去ってしまう。仕方ないさ。誰よりも悲しく、怒りでいっぱいになっているのは、彼なのだから。こういう時は変に刺激しない方がいいだろう。マルクは一人、納得して妻の待つ自宅へと足を向けた。冬の寒空を連れてくる冷たい風が彼の頬を撫でつける。この風が我が偉大なる唯一の親友の心を凍らせないように、と心の中で静かに祈ったのだった。
「おかえりなさい」
暖かい部屋に、温かい料理、そして温かい笑顔で迎えてくれる美しい妻、マリアにマルクは笑顔を返した。ただいま。
「カンディンスキーさんは一緒じゃないのね」
彼の友人は度々この新婚夫婦の住まう家を訪ねていた。まるで家族の一員のようになっていた。マルクは何も答えない。その表情には先程カンディンスキーに見せたような笑顔も、マリアに見せたような笑顔も存在しなかった。怒りと悲しみの混じり合った複雑な表情。二人の抱く運命、そして周りの酷い対応を知っているマリアは彼の表情に全てを悟ったようで、そっとマルクの背を押して椅子に座らせた。
「こんなのは間違っている」
いつだったか、カンディンスキーのいる場で告げた言葉を、無意識のうちに口から吐き出す。その声は以前とは違い、弱々しい。マリアは隣に腰かけホットミルクを差し出した。彼がカップを受け取ってから、マルクの膝上に手を置く。
「ええ、そうね、間違っているわ。ならあなたは、どうするべきかしら」
ゆっくりと吐き出された言葉は息のようで、それでいて大地を踏みしめるような力強さを孕んでいて、マルクは思わず彼女の顔を凝視した。
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