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クリトゥルヌスのぶどう酒
そこは楽園に違いなかった。
未開の荒野のさらに奥、人の手など入らない荒れ果てた山々に抱かれて、そこはあった。
集落と呼ぶには程遠く、ただ人の集まりと言った方がまだ近い。主たる生業もなく、出稼ぎなど存在すらせぬほど世間から隔絶されていた。端的に言って、そこは貧しさしか生まれ得ない環境だった。
けれども彼らは豊かだった。いや、より正確に言うならば、彼らは幸せなのであった。
簡素な造りの小屋の中、敷き詰められた藁の上に私は横になっていた。
「ずいぶん良くなりましたね、先生」
そう言いながら、一人の若い男が小屋に入ってきた。
「何度も言うが、先生はやめてくれ。私はただの地理調査員だ」
「やっぱり学者先生じゃないですか」
「だから、言っているだろう。私は地形を調べてまとめるだけで、研究する学者は別にいるのだと」
「よくわからないことを調べている人たちは、俺らにとっちゃみな先生さ」
そう言って笑う若者の歯は汚れて黒い。着ている服もボロ切れ同然だった。
「まぁとにかく、ここの人たちには感謝しているよ」
足に巻いた包帯を交換されながら、幾度となく交わしたやりとりを繰り返す。
「なぁ君。さっき言っていた通り、おかげで随分良くなってきた。復帰も兼ねてそろそろ出歩きたい頃だが、この辺りを案内してくれないだろうか?」
「あー…そのことなんですがね。今は少し、時期が悪いというか」
「時期?」
若者が言い淀んでいると、外から一人、初老の男が入ってきた。男は比較的小綺麗な身だしなみで、後退気味の前髪を後ろに撫で付けていた。
先生、と若者が声をかけると、初老の男は頷き「後は私が」とだけ言った。
「それじゃあ地理の先生、食事ここに置いておきますから」
「あぁ、ありがとう」
給されたいくつかの木皿には、少量の木の実とぶどう酒が入っていた。
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