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庭は暗く夜に覆われ、電気のシャンデリアは潔く室内だけを照らしている。
「行ってらっしゃいよ、ばら、綺麗よ」
煙草をくゆらせて女が言う。銘柄にこだわりはなく、ケープの下に飼っている風でくすねたもの。こちらは貰い物の赤い石が、耳から下がって揺れている。少年と二人、張り出し窓に並んで立って、女は熱い飲み物がほしいと思っている。一方の少年は薄い唇をふるわせ、妙に重心が前に傾いた姿勢をしている。
「簡単なこと、たった一輪、手折ってくるだけ」
女の流し目が、細く撚って吐いた煙と共に彼を打つ。途端、弾かれたように飛び出す。踏み台もないのに張り出し部分に軽々乗って、そのまま右足で蹴り出したのだ。押し上げられた窓は少年を通すとまた下に戻ってきて、元の位置にはまる時、がたんと大きい音を立てた。数秒の間に外へ逃げた煙は白い蛇となって泳いでいった。
少年が駆けていく。ばらの茂みは遠く、しばらくは小麦畑が続く。色付き始めた畑を荒らさずには通れないので最初は穂のひとつひとつに律儀に謝っていたが、段々おざなりになってついにやめた。
さて女は、窓に映った自分の姿越しに暗闇を眺めている。少年も蛇もとうに闇に紛れ瞳に映りはしないはず、でもくつくつ笑う。さも可笑しそうに何かを見ている。笑いに呼応して、背中で風がうずまく。
暴れる赤い石に引っ張られる耳に軽く触れ、顔だけ振り向く。
「甜茶を下さいます?」
女の背後にぴたりとくっ付いて少年が立っている。ばらを取りに行った者よりやや年嵩の、タキシードの少年である。片手に空の盆を、片手で蝶ネクタイをいじる。苦い顔をしているのはスラックスの中で女の風が這い回っているからだ。右肩を下げすねを掻きながら、
「夏の夜はソーダかレモネードと決まっている。でも牛乳なら認めよう」
「それじゃあココアにしようかしら」
投げやりな答えは煙混じり、少年の顔を覆う膜となり、彼の咳払いで払われる。慇懃なおじぎの後少年は振り向き、奥の扉から出て行く。「カカオ抜きのココア」とは去り際の言葉。
「ちがうわよ!」
女は目を見開いて叫んだけれど時すでに遅く、扉はぴたりと閉ざされている。
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