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菜種梅雨の合間の夜だった。
畳の匂いが重苦しい、布団も湿気って心地が悪い。くさくさして、私は同じく眠れずにいた好い仲の男を連れ、提灯片手に散歩に出た。
雨上がりの土の道など、気持ち良く歩けるものじゃない。けれど彼が揺れる柳を指して、無邪気にお化けの真似をしたり、望月で残念だねと手で月を隠して見せたりするのは、悪くなかった。
それだけの、数日後には忘れ果てているような夜になる、はずだった。
夜気が一筋、色を纏った。
風も起こさず、頬を冷気で撫で上げる、それほど涼やかな色だった。
そして再び、今度はパンと空を鳴らして色が吹き過ぎ、瞬く間に消える。
隣でからから笑っていた彼の首と一緒に。
飛沫が上がった。取り落とした提灯の灯りが乱れ、消える間際、散らばる濡れた南天の実を照らし出す。
足元で、水に浸かった手毬の落ちたような音がする。直後、毬の主がぶっ倒れて、泥をはね上げた。
私は転げた提灯と一緒にくしゃっとなっていた。腑抜けた足から、下駄だけどこかへ逃げおおせている。
掌を濡らし、着物を通して腿に擦り寄る、地面の水気は冷たい。なのに足袋に染みるのだけが、誰かの舌でも這っているかのようにじっとりと、生温い。
悲鳴の一つも上げたいのに、胸の中で太鼓が鳴って、吸った息を押し出してしまう。震える吐息で、唇の端が熱い。
頬に――粘る、滴り。
見上げると、望月が横一線、真っ二つになっている。
私は満たされて余裕ぶっているのは好かないので、場違いにもそれをある種痛快な光景と見た。少し、胸の太鼓が落ち着いた。
改めて見れば月を断つのは、仁王立ちした男が頭上で手首を反らし、地と平行に掲げた刀。
月光が流れ落ちて、その刃をすすいだ。すうと鍔元から切っ先まで、青白く光が通る。鋭い先端に達した光は、丸く光り雫となって弾けた。
平たい面には刃文が浮かんだ。盛りの藤棚を遠見するように、白っぽい小さな花房の並ぶのが見て取れる。合間には散った花弁か雨粒かが跳ねている。
切っ先を不穏にてらつかせながら、気品のある刀だった。刃の全体を賑やかす大小の模様を、潤んだような鋼が水面となって受け止め、沈黙させている。
ぴう、と刃が弧を描き、恍惚とした私を驚かせた。
血を振り落とし、垂らされた刀。それが今一度月影の元に返る時を、私は待った。
しかし刀は、現れた時と同様に突然、静かに遠のいて行った。追おうにも、濡れた裾が足を縛る。下駄もない。見る間に、刀を携えた人影が闇に消える。
今、殺しも攫いもしないなら、私の前には二度と現れまい。
ぽつぽつと降り出した雨と血潮に濡れながら、ただ寂しく虚しくて、動けなかった。
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