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開店中の表示を横目に入店すると、「月影」の店主はソファ席の食器を片づけていた。ちゃんと客が来ていたらしい。
「八雲さん。待ってたよ」
「この前はどうも」
「荷物、預かるよ。この前の席だろ」
水と一緒に出されたおしぼりは、花柄の手拭だった。
紅茶とケーキを頼んで、店内を見回す。天井に映された満月を見ても、思惑はほぼ明らかだ。でも、確認したい。予想より早いかもしれないが、彼もいつかは、こうして欲しかったのだろうし。
ポケットから、スマホを取り出す。
「あ、ごめん、電話だ」
店の奥で固定電話が鳴り、店主がカウンターを離れる。
私はその間にそっと、外に出た。スマホから、「刀剣喫茶、月影です」と声がする。深呼吸しながら、端末を耳に当て、店内に戻る。
「ボードが『貸切』になってますよ」
「……名刺、渡すんじゃなかったな」
カウンターに戻ってきた店主と向かい合う。「月影」のケースに手を伸ばし、刀を握る恰好をして、彼は力なく笑った。
「僕のこと、思い出した?」
「いいえ。私が憶えているのは、その刀の詳細だけ。一緒にいた人の顔さえ朧気なの」
「……僕も憶えてないな。君を惑わす彼を、憎んで殺したはずだけど。つまりそれだけ――君を愛して、いたんだよ」
「私を置いて逃げたのに?」
「脈無しだと悟ったのさ」
店主は――過去の人斬りは腕を下ろし、目つきを険しくした。
「あの夜の僕の気持ち、分かるかい。死人にも、人殺しにも目もくれず、君がこの刀に見入るんで、気づいたんだ。君はあの男を愛してなどいなかった。君の心を真に奪う物に、僕自身が引きあわせてしまったんだって。恋敵の刀を差して生きるのは辛かったよ。君との唯一の接点だから、あの夜の月光を号にして、大切にしたけどね」
店主の視線がついと離れ、たくさんの刀が並ぶケースに流れる。
「僕の記憶が戻ったのは、うちの蔵で『月影』を見つけた時だ。苦しいもんだな、この世にいるか分からない、しかも昔振られた女性に惹かれるのは。……だけどやっぱり君が欲しくて、僕は蜘蛛の巣を張ることにした。株取引で資金を稼いで、刀を集め、この店を構えた。君が存在して、記憶が戻っていれば、必ず刀を探すはずだから。小さな巣だけど、今はネットを使えば、誘い込む餌は広範囲にばら撒ける。店を開けたら、この刀の画像を載せたサイトを作るつもりだった」
「ネット検索は日課でしたよ。刀を扱うお店も回りました。私が貴方の巣にかかるのは、時間の問題だったんですね。結局、自分で飛び込んでしまったけど」
当てのない探し物に苦しんだ同士だからか、少し彼が哀れに思えた。
「貴方の望みは、私に愛されること。それは変わらない?」
「ああ、君の心を動かす、そう決めたんだ」
愛するべきは、この人なのだろう。盲目的で危ういけれど、少なくとも鋼を相手にするよりは、救いがある。
だけど心が動かない。愛は、求められるものを与えてこそ返るもの。彼がどんなに想ってくれても、私は虚ろなままだから、
……いや。
もし彼が、私の欲求を満たしてくれたら?
――思いつくと同時に、言葉が勝手に口をつく。
「私をその刀で――『月影』で、死なせてくれますか」
刀に想いは通じない。できるのは命のやり取りだけだ。
刀が身を持って人を斬り、人は命を差し出す。愛する刀とそれができたら。
私は、幸せだ。
前世から私を想う男は俯き、表情を隠した。予想通りの逡巡。人生の岐路に立たせている自覚はある。私は黙って答えを待った。
しばらくの後。
彼は一度、恋敵だという刀を見上げてから、答えた。
「自刃はさせない。僕がやる。そしていつ君を斬るかは、僕に委ねてくれ」
言い切って、彼は真っ直ぐ私を見る。
「預かった君の生を、君からの愛情と思うことにする」
先に答えが用意できていた私は、すぐに頷いた。
「それなら私は、その約束への信頼を、貴方への愛情だと思うことにします」
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