第四章 大切なもの

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 約束したデートの当日、輝也は翔から1件のメールを受け取っていた。  ≪Re:デートの件   今日の予定を変更したいのですが、下記の場所に夜8時に来てください ≫  メールには地図らしきものが添付されていた。目的地の周辺は見るかぎり住宅街で、デートにうってつけな飲食店もなければ、アミューズメント的なものもなさそうに見える。 「……まぁ、いいや。翔が来て欲しいっていうなら、何処へでも行きますよ、っと」  なにしろ命賭けで強盗に向っていったぐらいなのだ。今更地獄の一丁目に招待されても大したことがないように思われる。  その日輝也は早めに会社を後にすると、翔が指定した場所へと車のナビを頼りに辿り着いた。住宅街のなかに、ポツンと尖った屋根が突き出て、頂上には十字架が立っていた。どうやらここは教会のようだ。建物的にはかなり古い年代に建てられたもののようだが、石造りでとても頑丈そうに出来ている。 「地獄の一丁目は冗談のつもりだったのに、こんなに人気のない教会は不気味過ぎるな」  敷地内に止めた車から降り、目の前に建つ礼拝堂らしき建物の重厚な扉に手をかける。すると少し開いた扉の隙間から、幾つかの蝋燭の灯りが眼に入いり、荘厳なパイプオルガンのメロディーが鳴り響いていた。  身体を滑らせるように扉の隙間から中へ入れば、幾つも並んだ長椅子のさらに向こうに壁一面に豪奢な装飾と大小さまざまな種類のパイプが連なった中心に、演奏者が座っている。蝋燭の灯りのなかでゆらめく不思議なこの空間で輝也が見たものは、羽の生えた天使のような“彼”だった。  彼はまだ輝也が入って来たことに気付いてない様子だ。一心に誰かに捧ぐように弾く音色はバッハのアラ・ブレーヴェBWV589。音の世界にいるのは二人だけ。このなんとも形容し難い神聖な気持ちに、輝也は自分の眼から涙が一筋落ちていくのを感じた。  この空気と空間を壊したくない気持ちを抱きしめながらも、輝也は奏者に近づいた。
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