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少しうたた寝したのが良かったのか、桜子も昨夜に比べれば足腰がたつようになっていた。薫は立ったまま、優の行く先を目で追っていた。
「あの人に会うのは初めて?」
薫は感情の読みとれない声でつぶやいた。
「ーー水脈筋で二度」
桜子が驚いて目をまるくすると、薫は少し自嘲気味に笑った。
「一度めは撫子さんの影に会ったときだ。幼すぎて分からなかったけど、思えばあれが最初だった気がする。二度めは桜子さんと、あの里で会ったとき」
「私と?」
桜子は問い返す。
薫はそれに、ただ頷いた。
「撫子さんの遺言を告げられた直後だった。川のそばで話したのを覚えてない? 前日、水脈筋に降りたら優がいた。そのときあいつの名前を初めて知ったんだ」
ーー優。
幼い薫の声が、耳の先をかすめたような気がした。
具体的に何を話したのか思いだすことはもうできなかったが、そのことだけはハッキリと覚えている。
薫が自分でそう口にしたからこそ、あの日それが桜子の叔父の名前であることを知ったのだ。
「そんな小さな頃から、あの場所にひとりで行けたの?」
黄泉の淵だと、優は言っていた。『月読』のなかでも、彼ひとりしか訪れることができない地層の底。
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