1.彷徨い(さまよい)

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1.彷徨い(さまよい)

 惨劇の跡。  未だ硝煙の薫りが残る場所に、男は複雑な面持ちで立っていた。 「まったく、加減ってもんを知らねえな。肝心の奴は始末できてんだか……」  男が手探りで胸ポケットからタバコを取り出し、一本銜えようとしたときだった。 「やめとけや。火使うの危ないで」  驚いて振り向くと、戸口にもたれるようにして少年が立っていた。  視線を床に落としたままで、こちらを見ずに。  何の気配も感じなかったことにもだが、視界に映った相手の姿に、さらに驚愕を隠せなかった。 (子供!? 何でこんなところに)  どう見ても学生くらいの年齢に見える。羽織っているくすんだグリーンのトレンチコートが大きくて、余計にこじんまりとした印象を受ける。  なのに、この張り詰めた空気は何だろう。  自分も童顔であるために随分若く見られる。そのせいで昔は安易に絡まれたものだった。相応の礼を返すうちに今では誰も外見で判断しなくなったが。 (こいつも見た目では判断できない類いか)  さっきから男の脳裏ではずっと警鐘が鳴っている。 「誰だ」 「一応、今はあんたの敵やない。仕残しがないか確認しにきただけや」 「仕残し? ――おまえ、まさか」  男は知らず知らず手にしていたタバコを握り締めていた。  背中に緊張が走る。  ふ、と少年が視線を上げた。  斜めにこちらへと向けられた顔は、やはり幼かった。  大きな瞳には無機質な危うさと儚さとが奇妙に同居しているふうだった。  男は一瞬、反応が遅れた。  少年の手には銃が握られていた。  銃口の先は―― 「兄ちゃん、油断は禁物やで」 「――――!!」  弾は男の頬をかすめ、後方へと流れた。  うめき声に男が振り返ると、倒れたテーブルに隠れて銃を握っていた手が落ちるのを見た。 「はよ報告に行きや。もう生き残っとるもんはおらへんから。――始末は終わりや」 「あ、おい! 待て!」  もう一度見返したときにはコートの裾が翻ったところだった。  男は慌てて追いかけた。 「おまえ、おまえがアサシンなのか!?」  少年は肩口でひらひらと手を振って、小さく呟いた。 「ここ、まだガスが充満しとるから。タバコは外で吸いや」  歩みを止めることなくそのまま立ち去る少年を、男はそれ以上追いかけられなかった。  ――アサシン――暗殺者。  今回の仕事を完璧にこなすために雇ったという、殺し屋。  それがあんな子供みたいな幼い人物だったとは。  もしかしたら年齢は自分とそう変わらないのかもしれない。外見と年齢は必ずしも一致しないものだから。  しかし。 (それにしたって……あれでほんとに殺しなんかできるのか)  いや、現に奴は発砲した。  まだ息が残っていた敵が自分に銃口を向けていたであろう状況を、いとも簡単に打破したのだ。 (プロの手並みだ)  男はすばやくその場を立ち去り、離れた場所に停めていた車に乗り込んだ。  シートに沈んだ途端、大きな溜息が出た。  緩慢な動作でタバコを取り出す。  ゆっくりと煙を吐き出して、ようやく気分が落ち着いてきた。 「つッ」  突然頬に痛みを感じて手を当てると、ぬるっとした感触が伝わった。  そこでやっと弾がかすったことを思い出した。  身体を起こし、バックミラーを乱暴にこちらに向ける。顎を上げて右頬を映してみる。  何と、頬の半分ほどが血で赤く染まっていた。  かすったといっても弾そのものが触ったわけではないので、たいして気にしていなかった。というより少年のほうが気がかりでそれどころではなかったわけだが、一瞬の摩擦による痛みが生じただけなのにこれほど傷ついていたとは、少々自分に腹立たしく思った。  そして少年にも逆恨んでしまう。 「ちっ。プロなら当てるなよ。ったく、しばらく傷残っちまう」  男は後部座席に放っておいたティッシュの箱を無造作に掴むと、何枚か引き抜き血を拭き取ろうとしたが、こびりついて綺麗に取れなかった。  溜息をつくと、車のエンジンをかけた。 「どっか公園にでも寄るか。水で洗わねえと取れねえな」  男は何気なく車を発進させた。  いかにも営業途中で休憩を取るために停車していた軽自動車は、車体に『新村コンサルタント』と記されていた。乗車していた若い男性も、そう高くは見えないグレーのスーツを着慣れない感じで、仕事に四苦八苦している印象を受けそうな優男だ。  その男が頬を真っ赤に染めて戻ってきたことなど、気づく者は誰一人いなかった。  車は大通りから外れて住宅地へと入る。  秋も深まった夕暮れ時。  近頃の通り魔的な犯行が多発する状況にあって、日が落ち始めると人はまばらになり、公園付近は閑散としていた。  男は囲いに使われている植え込みの端に駐車し、一応辺りを確認しながら静かに公園内に入った。  首を巡らせて水飲み場を探す。  滑り台やブランコが設置されたその奥に見つけ、近づこうとした時、人の気配に気づいた。  ブランコに誰かが座っている。  その足元を犬がじゃれついていた。 (犬の散歩に来てんのか……ちょっと邪魔だな)  他に人がいないのも条件が悪い。すでに辺りに誰かいる、という認識を持っていれば新たに人が加わったところであまり気に留めないものだ。  しかし今自分ひとりだと思っていた場合、そこに第三者が現れると無意識にでも反応する。そしてどんな人間だろうと一度は視認するはずだ。  あまり気に留められるのは自分の場合よろしくない。  男は諦めて反転しようとした。  そこへ声をかけられた。さりげなく、自然に。  だから自分に向けられているとは思わず歩みを止めなかった。  するともう一度、今度ははっきりと呼び止められた。 「ええの? その傷ほっといて。心配せんでも誰もおらんで」  そのしゃべり方、声に、男は驚いて振り向いた。  ブランコに座り、片肘をついて上目遣いにこちらを見ているのは―― 「おまえ……」  なぜこんなところにいるのか。なぜまた遭遇したのか。  今日びの暗殺者は依頼主にさえ姿を見せないと聞く。  そんな得体のしれないものを今回の計画に一枚咬ますなど危険なのではないかと、自分は意見したのだが杞憂だと一蹴された。  しかし成功したところで信用がおけるわけもない。  男は近づくことなく、その場で問いかけた。 「……こんなところで何やってんだ」 「先にきたんはおれやで。何もあんたを気にしてたわけちゃうから心配すなや。たまたま、偶然やろ?」  少年は犬の頭を撫でながら答えた。その口元にはやわらかな笑みが浮かんでいる。視線までが優しい。昼間会った時とは印象が違う。ただの学生風情を漂わせていた。 「ここ洗うんちゃうの? 水、ちゃんと出るで」  自分の頬を人差し指で突付きながら言うさまを見て、男は溜息をつくとそちらに足を向けた。  こびりついた血を洗い流し、ポケットからハンカチを取り出していると、いつのまにか少年が側に来ていた。  思わず身構えて睨みつけると、相手はきょとんと眼を丸くし、次いでへらっと笑った。 「なんもせん、なんもせん。ほら、これあげよ思て」 「何だ?」 「傷薬。いつも持ち歩いてんねん。おれ、すり傷絶えんから。けっこう効くで、これ」  差し出してきたチューブ入りのものを見て、男は顔をしかめた。 「いらん」 「遠慮せんでええよ。その傷、おれが作ったんやし。ごめんな。ギリギリやってん、狙いどころが。あんたがちっとでも動いとったら耳無くなってたかもしれへん。あんた身体バランスええねんな。おかげできっちり始末でけたわ。けど関係あらへん人に傷負わしたから気になっててん。ここで会えてよかったわ。……あんたはそうでもないやろけど」  やたらとべらべらしゃべるので男はあっけに取られていた。 (こいつ本当にアサシンか? 今だって警戒もせず普通に昼間の話をしている。あそこにいた奴に違いないのに、どうしても重ならない。普通の人間じゃないか……)  黙りこんだ男を、少年は小さく首を傾げて見返している。  その大きな瞳は愛嬌さえも湛えていた。    *   *   *  茜色が黒ずみだして紺色の世界が広がり始めた。  すっかり陽は落ちて、そこかしこで街灯がつき、ちょうど二人が立っている水飲み場の後ろにもあったようで、まるでスポットライトのように照らし出された。  男は小さく吐息すると、手を出し少年が差し出していたチューブを摘んだ。そして灯りから逃れるようにブランコのほうへと移動し、そのひとつに腰掛けた。  少年も付いてくるとポールに腕を絡ませて、男の様子をじっと見ている。 「……火傷になってもうたなあ。男前やのにほんま悪いことしたわ」  あまりに沈んだ声を出すので、男は顔をしかめて相手を見上げた。 「何でおまえがそんなに気にするんだよ。女じゃあるまいし顔に傷くらいどうってことねえだろ」 「どうってことある! 兄ちゃんキレイやん。おっさん顔やったらハクが付くとか言うんやろけど、兄ちゃんは傷あったらもったいない気するわ。女の人が嘆くで」  真剣に力説する少年に男は呆れた声を出した。 「何だよ、それ……訳わかんねえ」 「なんで? 兄ちゃん絶対顔で商売できるで。……なんでああいう連中とつるんどんのか知らへんけど。ホストとかモデルとかやっててもおかしないのになあ」  ちょこんとしゃがみ込んで、男をまじまじ眺めながら少年は嬉しそうに言った。その隣では同じように犬が尻尾を振りながらお座りしている。 (犬が二匹……)  男はチューブの蓋を閉めると少年に投げて寄越し、胸元からタバコを取り出した。 「オレの詮索よりおまえこそその顔で何でアサシンなんかやってんだ?」 「え、この顔でって。なんかおかしいんかいな」  思わず頬を押さえて呟いた少年に、男はタバコを差し出してみた。 「吸うか?」 「ええの?」 「未成年じゃなかったらな」 「ははっ。今どき中坊かて吸うとるで。んじゃ遠慮なく」  一本引き抜いた少年に男はライターの火を向けてやる。  軽く会釈して少年は火に近づいた。  慣れたふうに煙を吐き出すさまを見ながら男は思った。 (似合ってねえけどな。まあこんなことで年齢は把握できねえか)  タバコ片手にヤンキー座りをしている姿は、今までと違って子供にはない哀愁が漂っているようで、急に大人びて見えた。 「おまえ、いくつだよ」  自然と口をついた。 「え? 年? 二十四」  さらっと言った少年に対し、男は絶句し、次には何だかむかついてタバコのフィルターを咬んでいた。 (タメかよ……これで) 「なあなあ兄ちゃんは?」  面白そうに聞き返してきた相手に男はぼそりと吐き出した。 「同い年」 「え!? マジで!? タメなん? うそや~」 「おまえがおかしい。オレは常識」 「なんでやっ。おれかて立派な二十四歳や!」 「見えん。ずっとガキだと思ってた」 「そういう兄ちゃんこそ、二十代後半やと思とったで。なんや落ち着いとるし。現場で見たとき、わざわざ幹部クラスの人がチェックしにくんのかあってびっくりしたもん」 「……この格好でか?」  男はスーツの襟元を引っ張り、少年の眼力に内心で驚いていた。  わざわざ安物のスーツを着、一般人を装って侵入したというのに、そうでなくてもこの童顔と茶髪で、せいぜい学生上がりが仕事にくたびれかけた風情にしか見えないだろうと半ば嘆いていたというのに。  これでどうやって組織の幹部に見えるのか。 「一応こんな仕事しとると裏の人間ぎょうさん見るからなあ。そういう人が表に出る時、変装するんは常識やし、なんとなくわかるで。どの位置におる人かちゅうことは」 「それだけ場数踏んでるってことか」  これに対して相手は自嘲気味に笑うだけだった。  しばらくの沈黙のあと、ふいに少年が顔を上げた。照れくさそうに男を見る。 「なあ兄ちゃん、名前聞いてもええか? タメやのに”兄ちゃん”呼ぶんもおかしいし」  男はそっけなく答えた。 「聞いてどうするよ。この先付き合いがあるとは思えねえけどな。おまえも教えてくれんの? 知られたらまずい身の上だろ?」 「(ロク)や。色の緑って書いてロク。まずいかどうかちゃんと判断しとるで」  すんなりきっぱり言い放った相手に男は複雑な表情で少年を見た。  あまりにも無防備ではないか?  闇に紛れてその存在をひた隠し、ただ無の中で生きる。人間の持ち得る一切の感情を切り捨て、一部の人間の思惑のためだけに殺しを請け負う。  その存在はもう人間ではない別な生き物だ。  自分には到底理解できない次元の違う生き物。  それが今、普通の人間として男の眼の前にいる。  男にはこの少年が暗殺者だということが納得できないでいる。どうしてもイメージと重ならない。  ――これ以上関わるのはまずい。  頭では警鐘をキャッチしているのに。 「それコードネームか何かか?」 「ちゃうよ。正真正銘、生まれたときに付けられた名前や。コードネームあるけど、ただの番号やからな。味気ないねん、あんなの」  あまりにも淡々と話している。  コートが汚れるのも構わずに、地面にべったりと胡坐を掻いて銜えタバコで遠くを眺めている。 「……何で名前なんか教える気になったんだ?」  少年はくるりとこちらに顔を向け首を傾げる。 「……理由は別にあらへんけど……やっぱり名前聞くんやったら自分から名乗るべきちゃうかなあ思て」  違う? というふうに眼が聞き返している。  男は溜息をついた。  ごちゃごちゃ考えている自分が馬鹿らしくなったのだ。 「虹平(コウヘイ)」  ぼそっと言うと、緑は小さく笑みを浮かべた。  驚きと嬉しさと切なさと、色々な感情がない交ぜになったような複雑な笑みだった。  照れ隠しか、緑は傍で横たわっていた犬に頬擦りをしてしがみつきながら呟いた。 「どんな字書くん?」 「虹(にじ)に平(たいら)」 「へぇ綺麗やな。名前呼んでええ?」 「いいけど」 「あんなあ、虹平。たぶん……もう会われへんやろけど、おれ、話できて嬉しかった。ほんまに」 「……」  虹平は犬に抱きついたまま話す緑を見つめた。 「なるべく人と関わらんように生きてきたし、裏の人間でもアサシンや思たら誰もまともに話してくれへんしな。虹平はめずらしいで」 「そりゃオレがおかしいってことか?」 「ふふふ。せやなあ。わかってて近づくんは勇気のいることや。自分に自信がないとでけへん。強いねんな、虹平は」 「んなことねえよ。……だいたいこんな人懐っこい殺し屋なんて見たことも聞いたこともねえ」 「え?」  緑はきょとんとした顔で振り向いた。 「おれ、人懐っこい?」 「だろ? 犬っころみてえに寄ってきたじゃねえか」 「それ……それって、おれが懐っこいんやのうて、虹平が平気な顔しとったからや。寄ってっても大丈夫やて。……あーでもなんでおれ気にせんかったんやろ」 「何だよそれ。オレが寄って来いオーラでも出してたってのか?」  やけくそで言うと、緑はポンと手を打った。 「うん、それやそれ。 せやからおれ平気やったんやなぁ」 「そんなバカなこと」  虹平はタバコをピンと弾き、踵で踏み潰した。立ち上がりながら、どうでもいいように吐き出した。 「ありえねえな。オレは寄り付かれるタイプじゃねえもん」  軽く伸びをして首を左右に傾けたりしている虹平を、緑も立ち上がると真摯な瞳で見つめた。 「そんなことないやろ? あんた人を惹きつける力持ってんで。……光の人やから、おれ、立ち止まってしもたんかもしれへん」 「……何?」  訳がわからず疑問に思って緑を見返すと、相手はにっこりと微笑んだ。灯りを背にしているにも拘らず、暗がりの中でその笑顔ははっきりと虹平には見て取れた。  ぼんやりと見つめていると、いきなり緑がくしゃみをした。 「う~、なんや冷えてきたなあ。おれそろそろ帰るわ。虹平もはよ帰ってあったまり。明日っから忙しなんねやろ?」 「おまえ……」  こちらの内情を知ってそうな台詞に虹平は眉をひそめた。  緑は気にせず続ける。 「……あんまり無理したらあかんで。おれが口出すことやないけど、拡張はタイミングもあるけど急いだらあかん。いくらでも脇から付け込まれるからな。ように見渡してから進めんと一箇所突かれたら総崩れになる可能性もあるんやで」  情報収集もアサシンにとっては仕事のうちだ。自分たちの状況を把握されていてもおかしくはない。  虹平はひとつ息を吐き、ふっと口元を緩めた。  そのまま髪を掻きあげながら緑を正面に見た。  見つめられて少し驚いたように眼を丸くする緑に、虹平は自然笑みがこぼれた。 「忠告、肝に銘じとくよ。ありがとな、緑」  瞬間、花開いたようにやわらかな笑顔を見せた緑を、虹平は脳裏にしっかりと焼き付けた。 「また会えたらええな」 「そうだな」 「なあ、今度おうたら、どっか景色のいいとこ見に行かへん?」 「……行きたいところでもあんのか?」 「せやなあ……やっぱ定番は海かいな」 「ふ、海ね」 「なんやの、おかしいかいな」 「いいや、いいんじゃねえの」 「へへ、ほな決まりや! 海~、楽しみやぁ……」
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