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2.途惑い(とまどい)
黒い雲が立ち込めはじめた空を仰ぎ、緑はぽつりと呟いた。
「降ってきそうやな……」
左手でシャツのポケットを探りタバコのパックを取り出す。
フィルターを口で挟んで引き抜くと、次はライターを取り出そうとして手中に納まっていたはずのパックを落としてしまい、思わず溜息をついた。
「片手でなんもかんもやるんは無理やな。っていうか力入らんねんもん……」
誰に訴えるでもなく愚痴って、今にも震えそうになる手で火をつけた。
白い煙を吐き出して一息つくが、途端に意識がこの場から離れてしまいそうになって、緑はぼんやりとしてくる視界と懸命に闘った。
だらりと垂れ下がった右腕が重い。
握っている拳銃の硬さだけが妙に感じられて、空虚な世界が自分を取り巻いていくのがわかる。
「帰るん、面倒やなぁ……」
仕事はきちんと終えた。
その報告をしておかなければ、さらに後が面倒になることをよくわかっているから、尚のこと悩む必要はないのだが、傷を負ってしまったことが結局は難癖をつけられる対象になるかと思うと、やはり気が重いのだ。
「これっくらい自分でなんとかできるし、電話するだけにして帰るん後にしょうかなぁ」
そんでええわと、これ以上悩むのもいやだとばかりに銜えていたタバコを吐き出すと、足で踏みつけ、もたれていた壁から身を起こした。
途端に頬を何かがかすめた。
「ああ……降ってきたわ」
空を見上げると、雨粒がまっすぐに落ちてくる。
徐々に増えてくる雨粒を全身で受けながら、緑は襲い掛かる寂寥感に唇を噛み締めた。
いつもそうだ。
仕事を終えた後は、空しさが込み上げて胸が苦しくなる。
身体中が痛い。
吐き気がする。
それは自分が作り出した惨劇の跡を見て感じるのでない。
数え切れないほどの死体を山と積み上げても、命乞いをする懇願の声に幾度と曝されても、引き金を引くことには何の躊躇も生まれない。
他人の感情など自分にはまったく届かないのだから、これほどこの仕事に向いた人材はいないはずだ。
なのに、ただ空しい。
せめて他の同業者のように快感を覚えれば、異常者扱いされても殺すことに楽しみを感じられれば少しは仕事をする意味もあるだろうに。
やっていることは同じなのだから。
殺しの依頼を請け負う“暗殺者”として、全身を血に染め暗躍していることに何も変わりはない。
ずぶ濡れになりながら、今にも沈みそうになる意識の中で、緑はふと眼を瞠った。
脳裏に浮かびあがった、ある横顔。
初めて出会ったときに光を感じた人間の綺麗な横顔。
「なんで、今思い出したんやろ……」
緑は知らず知らず笑みを浮かべて、自然と歩き出していた。
どこへ向かうのか、誰にも何にも告げぬまま――。
* * *
天空へ挑むように屹立する巨大な高層ビル。
白銀の姿態は、まるで王者が掲げる剣のように見える。
明らかに攻撃的なその様相に、虹平は苦笑するばかりだった。
自分自身がそれに組み込まれた部品の一つであることを嘆いたわけではなく、この巨大な剣を表舞台に堂々と掲げて平然と居座っている主に親愛を寄せているからこそ浮かぶ笑みだった。
だから時々このビルを外から眺めるのだ。
ビルの前を走る大通りに幾重もかかる歩道橋から見上げるのは中々爽快だった。
そんな虹平の姿は、傍から見れば一服をしているサラリーマンにしか見えないだろう。
スーツの上着を腕にかけ、ネクタイを外してシャツを着崩しているが、だらしなく見えないのは顔立ちや佇まいから品の良さが垣間見えるせいか。
虹平は短くなったタバコを歩道橋の手すりに擦りつけて、そのまま手首を翻した。
落ちていくタバコに見向きもせず、その場を離れようとした虹平の耳に小さく呟く声が聴こえた。
「あ」
瞬間、虹平はタバコを投げ捨てたことを誰かが見咎めたのかと思い、それ以上絡んでこないことを祈りながら視線だけを後方へ流した。
ちらりと掠めた姿に、思わず歩みを止め身体ごと振り返ってしまう。
「あ~あ、落ちてもた」
手すりに身を乗り出し下を覗き込んでいるのは、以前会ったときよりも幾分髪が伸び、まさか日焼け防止対策でもあるまいに、この暑さの中で長袖のパーカーをしっかり着込んだ、学生のような幼さを残した男。
忘れもしない、その顔、その姿。
ためらいもなく銃口を向けるヤツの仕事は――“暗殺”。
「タバコの投げ捨てはアカンで~。この辺って違反になっとんのやろ? もうちょっと人の眼気にして行動せな。なんや全然危機感、感じん人やなぁ。ほれ、おれはちゃんと携帯灰皿持ってんで」
ニッコリ笑って携帯灰皿を掲げる相手に、虹平は顔をしかめた。
「……何故ここにいる?」
ようやく言葉が出た。声がかすれてしまっていることに内心舌打ちしたくなる。
射るような視線を送ると相手は苦笑を返した。
「そんな不機嫌にならんでもええやん。たまたま……てわけでもないけど、別に仕事関係やないよ。ただの緑が……」
ふと口を噤む。
口元に手をやり、唇をいじる指が何かを逡巡しているのがわかる。
虹平が首を傾げていると、上目遣いの眼がひたと向けられた。
「ただの緑が、虹平に会いにきたねん」
無防備な姿を曝してそんなことを言う。
おかげで虹平は、とっさに吐き出そうとした言葉を飲み込んでしまい、口を半開きにしたままあっけに取られた表情になった。
「虹平? あの……おまえのほうからしたら迷惑な話やってわかっとるけど、なんかふっと虹平の顔思い出して、そしたら会いたぁなって。ちょっとだけ会いたくなってもうた」
そう言って小さく笑んだ緑の顔が寂しそうに見えて、虹平は思わず顔を背けた。
完璧な仕事ぶりからは想像できない人懐こい小犬のような瞳は、何も考えずに微笑みと手を差し伸べたくなる衝動に駆られる。
だがいつ牙を剥いて喉元に噛みつかれるか、そんな危機感をどうしても拭えないために、躊躇なく近づいてくる緑を虹平は受け入れられずにいた。
「おまえさ、少しは自分の立場考えろよ。こんなとこ、うちの連中に見られたらどうなると思う?」
「あ、うん、ごめん」
これまた素直に謝ってくれるから、虚脱感が圧し掛かって溜息しか出ない。
「あの、せやけど、おれのこと、顔とかって虹平の仲間は誰ひとり知らんと思う。おれ、依頼人やその関係者には絶対姿見せんようにしてるから」
「何、じゃオレは? れっきとした関係者だぞ」
「あーうん。せやな……なんでやろ?」
緑は首を傾げて頭をがしがしと掻き回した。
「あのさ、もうちょいそっち行ってもええ? なんか離れてるから声、張らなあかんやんか」
ねだるような声に、相手がどうやっても自分を逃してはくれないらしいと観念して、虹平は再び歩道橋の手すりにもたれた。タバコを取り出し、自分が一本銜えてからくしゃくしゃになったそれを掲げる。
「いるか?」
「おー」
緑は照れた笑みを浮かべてゆっくり近づいてくるとタバコを受け取る。
「あれ? 最後の一本やん。かまへんの?」
「ああ。後で買ってきてよ」
「りょーかい」
くすくす笑って火を貰うと、緑も手すりにもたれて空を仰いだ。
「こないださ、会うた時。あん時、仕事済んで出ようとしたら誰か入ってくるんが見えて、まだおったんか思て様子見に帰ったんや。まだ人が残ってたんかと思て。あん時のおれの仕事は事務所におる連中を残らず殺れってことやったから、いずれは襲撃されたことが広まってまうゆうても、多少のタイムラグは生じさせんと意味なかったからな。その間におまえんとこのボスが取引を終えとかなあかんかったし。せやからおまえの後追っかけてしばらく様子見とったんや」
「……何ですぐ殺らなかった?」
「そら無理や。ちゃんと身元わかっとらんと手当たり次第殺ってもて、依頼主の仲間を間違えて殺しましたや笑い話にもならんわ。後で痛い目見るんおれやからな。その辺慎重にやらんとさ」
「ふーん。いくらでも人間殺してんのに、やっぱ自分が痛い目に遭うのはいやなもんなのか?」
いやみ半分と、ありきたりな反応にただの人間であることへの安堵感が半分とでも言おうか。虹平は気楽に訊いてみたつもりだった。
たとえ相手が不愉快に思ったとしても、それはそれでよかったのだが、返ってきた緑の反応は至極平静だった。
「ちょっと意味がちゃうな。虹平がゆうてる痛い目とおれがゆうてる痛い目っちゅうのは」
「……どう違う?」
「身体が痛いのんは、まあ平気や。拷問されても耐えれるように仕込まれてるからな。知っとる? 暴力ってな、慣れるもんなんやで。痛みは快感と紙一重や。訓練次第で平気にはなるけど、そんでもやりすぎると死ぬわな。いくら苦痛に耐えれても限界以上痛めつけられたら生命維持できへんのは当たり前やから。けど、そんなんやのうて、おれには他に怖いもんがあんねん。上の人間それ知っとるからな。使う駒の弱点はちゃんと把握しとる。まあしゃーないわな」
「ふーん、おまえにも弱みがあんのか。しっかし拷問に耐えられるとはすげーな。どっか軍にでも入ってたのかよ?」
「ううん。軍には入っとれへんけど、訓練施設っての? そんなとこで暮らしとったから色々やらされたかな」
声のトーンが落ちていく様子に、虹平はさすがにこれ以上は突っ込めないかと、ずれた話を戻すことにした。
「で、オレが組織の人間だってどうやってわかった?」
「ん? うん、それな簡単にわかってもうてん」
へらっと笑う緑に虹平は首を傾げた。
そんな虹平を下から覗き込むように、ちらりと視線を上げる。
「顔、知っとった」
「はあ?」
「事前にな、幹部クラスまでの顔写真見せられとってん。おれの仕事っぷり、たぶん誰かが見に来るやろってことでな」
虹平は頭を抱えた。
「けっこう情報が筒抜けてんだなあ。守秘義務ってのは双方でちゃんと成り立ってんのかよ。ったく」
後半は独り言になっていった虹平に緑が苦笑した。
「そんくらいのリスク、わかってて依頼してんのやろ? 万が一情報が洩れてゴタゴタになったとしたら、そんだけの力しかなかったって話や。せやけど、今までおれんとこがわざわざ関与して、組織消滅させたやいう話は聞かんけどな。おれが知る限りやけど」
「……おまえ、しれっとはっきり物言うな」
「へへ、おれけっこう何でも冷静に物見とるから。それに、虹平には誤魔化しとか繕ったりとかしたぁないし」
それを聞いて虹平は複雑な気分になった。
(何だってこいつはオレに対して無防備なんだ? 初めて会ったときもそうだったけど、今だって、あれから半年以上経ってて、まだ二度目だ。旧知の友みたいな感覚でしゃべってくるなんて、おかしいじゃないか。こいつは殺し屋なんだぞ)
涼しげな表情でタバコを吸う緑の横顔を見ながら、虹平は相手の真意が図れずにいた。かすかな苛立ちが生まれる。
「あ、虹平」
いきなり呼ばれて意識を現実に戻すと、緑が視線だけで何やら合図を送ってきた。
緑の後方に人影が見える。
「おれ、虹平の昔の仲間ってことで。同級生でもええな」
「は? 何言ってんだよ……」
「んで、仕事、いつもどおり終わる? 帰り道のどっかで待っとるな」
「えっ、ちょっ」
緑は問い質そうとした虹平の指からタバコを取り上げると、自分のと一緒に携帯灰皿に押し込み、さりげなく虹平の横を通り過ぎた。
「海、見に行こうや」
そう言っただけで振り向きもせず歩いて行ってしまう。
その背中を呼び止めようとした虹平だったが、背後から近づいてくる足音に、伸ばそうとした手をどうにか止めた。
「虹平さん、またここでしたか。そろそろ戻らないと専務の機嫌悪くなりますよ」
「……ああ、そうだな」
「今の、誰ですか?」
歩道橋を降りて行く緑の姿を顎で指し示す部下に、虹平は淡々とした口調で答えた。
「昔の仲間」
「へぇ~。だったら挨拶しておきたかったですね。虹平さんと付き合っていけるなんて、相当なツワモノなんでしょ?」
「何だそれ? オレってどんな人間よ?」
「いやそれはもう、怒らせたらただじゃ済まないっつうか、死ぬより恐怖っつうか、死んだほうがマシってやつですかね。あんまり綺麗な人が能面みたいな顔つきになるとゾッとしますもんね」
「……ったく言いたい放題だな」
「あ、いや! これは敬意を表してるんであって、決して悪く言ってるんではっ」
「うるせー。もう黙ってろ」
す、すんませんっと、冷や汗を掻きながら後をついてくる部下のことなど、虹平の中ではすでに置き去りにしていた。
(待ってるだって? あいつ……まさかオレのスケジュール把握してんのかよ)
どうにかして自分の中に凝ってしまっている感情を吐き出したくて、虹平は重い重い溜息をついたのだった。
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